日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

学歴の壁・地域格差・リテラシー弱者を生み出す社会の病?あなたはどう思いますか?

最近、いくつかの記事を読んで、自分にも問いかけられたと思ったので、facebookでシェアだけしたのだけれど、それに対して、中野さんにコメントをいただいて、すぐお返事ができなかった。ようするに、自分は考えるふりをしてあまり考えてなかった。

だけど、せっかく中野さんが投げかけてくれたので、自分でもう一回記事と中野さんのコメントを読んで、考えてみようと思った。いつものようにぐるぐる&結論はないのだけれど。


 ※部分的な抜粋は、フェアではないと思うので、ぜひリンク先の記事を読んでみてくださいね!

luvlife.hatenablog.com


「低学歴の大人」や「子供を低学歴にする大人」が作ってる世界に育った子供たちが低学歴になる。
常識をおしえてもらえなかった子供たちが、その子供たちだけの常識作る。

それで、この「低学歴の世界」を、そうじゃない違う世界と切り離さないで、って思った。
(特定のブログの人にじゃなくて、不特定多数に向けて、です)

どこかでパイプ繋げて。

それじゃないと、いつまでも、ちゃんとした世界に入れなくて、この世界に取り残される人がたくさんいる気がした。

 


anond.hatelabo.jp

ここでずっと仕事していると、こういう世界が日本の普通と錯覚してしまう。

そして彼らの大半は、家族も両親もずっと「高学歴の世界」で生きてきた人なので、「低学歴の世界」を垣間みたことがない。

 

大学進学するのが当たり前だと思ってるし、周りも大卒ばかりなので、実は日本には大卒ってそんなにいないことを実感していない。

 

政治家だけはこの溝について何かしら対処すべきだと思うけど、政治家自身も「高学歴の世界」にいる人たちばかりなので実感として「低学歴の世界」を理解できないんだろうな。


この↑記事に対して、中野さんからこんなコメントをもらいました。

高校はビーバップな世界だったので進学率はきわめて低かったけど、同窓生はみんな大卒者以上にまっとうな社会性と人間性を身につけた大人になっています。

この方は、生まれ育った「地域性」の違いを「学歴」の違いと(意図的ないしは無意識に)錯誤することで、ご両親の先見性とご自身のたゆまぬ努力をアピールされているようです。苦難のなかで学業に励み、有名大学へ進学し、大企業へ就職なさったことは素晴らしいことですね。

ただ、「孟母三遷」の故事を引くまでもなく、古来より生活環境と《学業成績》は相関関係にあるのは明白で、この方の境遇はわざわざ「学歴の壁」なんて持ち出さなくても充分に説明可能です。

ここで《学業成績》とカッコ書きにしたのは、生まれてくる子供達の能力には(その後の人生で強いられる機会格差や収入格差ほどに)違いはないということです。

ゆえに公的教育の充実は国家の繁栄に不可欠ですし、人材の多様性はやがてこの方の勤務される企業にとってもメリットを与えるものです。

そういう視点を欠いてしまい、いまや《同質性》のなかにどっぷりと浸って過去を傍観しておられる投稿者さん。企業社会での将来を思うと、どうにも心配でなりません。

 

 それに対して、私は、以前に読んだ下記の記事を出して、

自分の努力次第ではいろいろな進路を選ぶことができる「地域」に住んでいながらも、様々な想像が欠けていたことからその後に苦労をしたという自覚があるため、自分ちの子どもたちが今まさに進学の今の時期に、いったい進路を選ぶとはどういうことなのか?と腰を据えて考えているところです。というお返事をした。

 

gendai.ismedia.jp


田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。

 

見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。


まさに問題は、この「想像力が奪われている」ということにある。こうした田舎では、とにかく文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されているのだ。


あまりに遠すぎて想像すらできないこと、これが田舎者の本質的な困難なのである。


gendai.ismedia.jp


田舎では地域格差を自覚すること自体が困難であるのに、その格差を自力で解消するためにインターネットを活用することができる人など、まれであるというか、ほとんど矛盾している。格差に気づくこと自体に高度なリテラシーが必要なのだから。



それに対してまた、中野さんからコメントをいただいた。

この記事は僕も読みました。地方と東京との格差に言及していますね。ただ、貧富の差や地域性については踏み込んでいないように思います。東京都内でも著しい格差が存在するように思いますが、地方出身の彼にはその実態が見えないのでしょう。

それは、地方から東大を目指した信念の人ならではの一途さによるものと思われます。
「一番になりたい」「特別でありたい」「素晴らしくありたい」「スマートでありたい」「優れた能力を活かしたい」「可能性を試したい」
これらはみな、向上心のもたらすものです。

資本主義社会が必要とすのは、汲めども尽きぬ向上心を有する労働力で、それを効率よく生産するために教育システムを発達させてきたように思えます。
このタイプの人材は、マズローの欲求段階でいうところの「自己実現欲求」ないしは「社会貢献欲求」を満たすことを望んでいるため、誰もがその欲求の高潔さを信じて疑わないようです。

しかし、よくよく考えてみると、彼の自己実現や社会貢献の対象が「中央」の「効率を重視する」「大組織」のためのものであるなら、彼がその人生で実現させるものは紛れもなく《地方と東京との格差》なわけです。

つまり、彼自身が上京してその格差に気付く以前に、彼の先輩たちや父親世代の秀才たちが、まったく同様の格差に遭遇し、それでも向上心をもって取り組んだ結果、《地方と東京の格差》が数十年にわたって広がり続けたわけです。

もし、彼ら秀才たちがこの格差を産み出している社会システムに疑念を感じ、非生産的で非効率で収益よりも文化の充足を好むような社会システムを充実させ続けていたなら、現代ほど《地方と東京の格差》は広がっておらず、地方独特の食生活や文化、祭礼や生活様式を楽しむ充実した人生が、全土に満ちあふれていたかもしれません。

いわば「下りていく生き方」のようなものが、価値観の中心に備わっているかどうかが問われているわけです。

うちの息子も大学進学を迎えて、アメリカの大学への入学を希望しています。すでに10ヶ月のイギリス留学を終え、学校からも期待されているようですから、実現すればグローバル人材としての人生が約束されることでしょう。

さきの投稿にあった「学歴の壁」の向こうの、さらに向こうの「グローバルの壁」を越えたところに、息子の将来があるわけです。
ただ、そのことを僕は喜ばしく思えません。

社会的弱者には弱者なりの人生の楽しみや充実があり、その仕事にも役割があり相応の価値があります。
世界はいま、その当たり前のことに気付いて、大きな転換に挑戦しようとしています。
才能豊かな子供たちがその実現に向けて努力してほしいというのが、僕の願いなのかもしれません。

 

 そして、

彼ら秀才たちがこの格差を産み出している社会システムに疑念を感じ、非生産的で非効率で収益よりも文化の充足を好むような社会システムを充実させ続けていたなら、現代ほど《地方と東京の格差》は広がっておらず、地方独特の食生活や文化、祭礼や生活様式を楽しむ充実した人生が、全土に満ちあふれていたかもしれません。

いわば「下りていく生き方」のようなものが、価値観の中心に備わっているかどうかが問われているわけです。

 
というところに、非常に賛同をしました。まさにその通りだなと思います。


記事では、「地域による格差」「貧富による格差」、それによって構造的に生まれるリテラシーの格差」などが取り上げられており、

それに対して中野さんからは、


・それらの格差と「社会性」と「人間性」を育てることは別のものではないか?

・筆者は、格差を飛び越えて選ばれた側に入ったのに、格差を助長する「社会システム」をつくり出す文化にどっぷりつかっているのではないか?


というような提起がありました(解釈違ってたらごめんなさい)。

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で、あらためて読んでみると、自分の考えられる粒度よりも大きい問題がいろいろ含まれているなーと思っています。
なので、自分と関連付けて考えられるところからまず始めたい。


これらの記事に共通するのは、自分の環境の外に出ない限り(壁の向こう側に行かない限り)、「気づくことができない」ということ。気づくことができないものは、ある・ないの認識ができないということ。


私自身は、埼玉県の中でも東京都に隣接した地域なので、選択肢がいくつもあることが当たり前で、公立中学校→公立高校→私大の流れの中で、東京の高校も大学も受けようと思えばいくつでも受けられた(受かれば自宅から通える学校はたくさんあった)し、そんなに自分が生まれ育った地域の閉鎖性は感じたことはない。

なので、記事を読んで思うのは、純粋に「ほんとかー、そんな状況なのかー、それは大変だなー」ということ。

一方で、底辺とよばれる環境ではなかったけれど、かといってまったく富裕層や学歴強者ではないので、「社会システム」をつくり出す側のエリートの世界も実態をしらない。自分がその中にいたことがないし、自分が実際に知っている数人の人や、あとはメディアで伝え聞いていることくらいしか情報がないから。だからものすごく裕福で、学が高い人たちが、それこそ一人ひとりがどう考えているか、世界や社会をどう見ているかなんてわからない。


最近参加をさせてもらっているダイアログの場で、学歴バイアスや地域の逆転現象みたいな話題があって、無責任にいろいろ発言してしまったけれど、私は実態をいったいどこまで知っているのか?と思うと、自分が今いる世界から見えるほんの一部でしかないのだろう。


私自身の実態から考えてみると、世の中にはどんな学び方があって、どんな働き方があって、どんな生き方があって、なんてことは、未だかつて教えてもらったことがない。

だから自分が「たまたま」出会った人や出来事に影響を受けながら、そのときそのときに選択肢の中から「選ぶ」、「決める」ことをしてきた。こう書くと主体的に選んだように響くかもしれないけど、「流されてきた」という方が正しいかもしれない。

でも、その選んでいる自分が認知できる世界の外のことは、見えないし、気づいていないから、後からふりかえると、「あちゃちゃ」なことがいっぱいある。後悔とはちがって、そのときは見えていないからしょうがないけど、見えてたらよかったね、残念だねというような感じ。

私の場合はその「あちゃちゃ」という気持ちが、自分を「学び」に向かわせた。そして「学ぶ」ことを通して、世界や社会や自分が見えてきた。まだまだ部分部分が見えているにすぎないだろうけど。

そんな現状では、まだこういった格差の諸問題を前にして途方にくれるしかできないというのが、正直なところ。

ただ、日本はこれらの記事に限らず重い病にかかっていると思っているし、日本という国が歴史の中で育んできた文化の移り変わりとその中心にある価値観の変遷を見ていると、あまり明るい希望は持てない。

答えがあるとは思えない。今のところは。

だから、対話をつくすことが必要であると考えている。
私が今まずできることは、こんな風に様々な人の言説を並べて「あなたはどう思いますか?」と投げかけること。


そして、一番身近な自分の心の中の格差に気づき、お別れをすること。
心の中の格差は、大きなものから細かなものまでたくさんある。
分けて、決めつけて、というのを小さなところから失くしていく。


なんか、パリッとは言い切れないですが、何度も読み返しながら、引き続き考えていきたいと思います。
中野さん、こんなんでごめんなさい。
貴重なコメント、ありがとうございました!