日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

アドバイスを求められても、しない

先日のブログで相手の話をロクに聞かずにアドバイスをするのは、「追い越し運転」と書きましたが、わかっていても、ついやってしまうことってあるものです。
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 よくあるのは、奥さんのぼやきに対して旦那さんが「だったら~すればいいじゃん」という例のアレ。わかってても、つい条件反射でやってしまうのですよね、きっと。

上司が部下に対して。
親が子に対して。

同じような状況、ありますよね。

これを繰り返していると、される側は、もはやその人に話をすることさえ、諦めてしまうような関係にまっしぐらです。

直接的なアドバイスの形をとっていなくても、結果的にアドバイス的になってしまうこともあります。

提案、体験談なんかがまさにそう。

「~してみたらどうかしら?」

「~なんかどう?いいらしいわよ」

「私は~したら、そういうのがなくなったよ」

「知り合いが~したらよかったって言ってたよ」

ちょっと表現が変わるだけで、言われた方からしたら全部アドバイスですよね。

こういうことは、自分のほうが知識も経験もあって、物事をわかっていると(無意識に)思っている立場の人がやってしまいがちなのではないでしょうか。

もしくは、そんな風にポジションをとっていなくても、少しでも相手の役に立ちたいという気持ちからの人もいるだろうし、ただ単に自分がいろいろ知っている、経験してると思われたいという、承認欲求の場合もあるかもしれません。

これらの全部が全部悪いといいたいわけではなく、タイミングが重要で、求められても言わないで、しばらく待つくらいが適切なんじゃないかと思っています。

ただ、言いたくなっちゃう人の気持ちはすご~くわかる。
私もよくやっちゃうから笑。

これはもうクイズみたいなものなのではないかと思ってます。

「日本で3番目に高い山は?」

奥穂高岳間ノ岳!」

知ってたら、つい言っちゃうのと同じようなものです。
反射的に出ちゃう。

だからこそ、すごーく気をつけなくてはいけない。

誰かが「~なので、どうしたらいいかなーって思ってるんです」とか「~で困っていて、どうしたらいいでしょうか?」と表現上は言ったとしても、とにかく、文字通り受け取ってはいけない!と心に銘じる

一番大切なのは、
「どうしたらいいかなーって思ってるんだ」
というその人をそのまんま受け止めること。

表現(話の中身)を受け止めるのではなく、相手の状態を受け止めること。


オープンダイアローグの日本での推進に取り組まれている精神科医斎藤環先生は、「アドバイスは相手の否定であり、不毛だ」とおっしゃっていました。

例えば、ひきこもりの生徒さんがいて、なぜアドバイスをしてはいけないか?というと、当事者の力を奪うことになるからだそうです。

アドバイスをするということは、相手の現状を否定すること。
その否定によって、自発性、主体性が奪われていってしまう。

そういうことをしっかり心に留めておく必要がありそうです。

アドバイスに関連して、最近「そうそう、そうだよ!」と膝を打ちまくったのが佐渡島さんのnote。

www.sady-editor.com

佐渡島さんは、NHKのプロフェッショナルにも登場したことのある編集者さんですが、こちらの↓本を読んでこの記事を書かれています。

 ※関係ないですが、この本の著者の仲山さんは私が2009年に独立したときの、超恩人の方です。これはまたいつか自分語りをするときにでも。

以下、noteからの引用です。部分部分を抜き出しています。

”教えたくなるのは、知識が中途半端に少ないときだと思います。そういうときって、持っている知識を全部出したがる。逆に知識が多い人は「全部は教えられない」と悟っているから、相手の準備ができたときに必要なことを伝える感じになります。”

このフレーズをみて、僕は頭をガツンとされた気分だった。

どうやったら作品が面白くなるのか。それを先輩から学んだり、本から吸収したら、すぐに作家に伝えていた。

振り返ると、知識を話すタイミングは、僕がその知識を得た時で、相手に必要な時ではなかった。

必要なことは、整理された知識を手渡すことではなかった。体験をしてもらい、適切なタイミングで知識が渡されると「自分ごと化」する。

求めている人が、知識を受け取ると、飲み込みが早い。自分ごととして咀嚼し、アウトプットにすぐに反映される。

大切なのは、必要最低限の知識しか伝えないで、求められるまでひたすらに待つことだったのだ。

知識も同様で、どんなにマンガに関する正しい知識をまとめても、相手がそれを求めていなかったら何の役にも立たない。まずは、相手の状態を知る。そして、相手を見て、知識が伝わるタイミングで、伝わることだけを言う。

 

私も頭をガツンとされた気分になりました。

ああ、なんかやっちゃってる、私も。
なんなら、ものすごく情報を詰め込んでぎゅうぎゅうにして渡そうとしちゃうことある。その方が参加者の方にとってコスパがいいだろうと思ってることもあった。


一方で。

このnoteの記事を教えてくれたうっちーは、昨年末のインタビューワークショップでご一緒したのですが、ワークショップ主宰の西村佳哲さんはまさに、「参加者たちの様子を観察して、必要なときに必要なことを伝える」ということを体現してくれていました。

だから、このnoteの内容が(教えられる側の)自分事として、「本当にそうだなー」と染み入るようによくわかる。

西村さんがつくる場では、待っていてもらえる。安心して自分で気づいてつかんでいくことができる。学びというよりは、純粋に体験をするので、深く身体に刻まれる。それは、理解をするからではなくて、その体験そのものを生きた、から。

 

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インタビューのワークショップ会場の清里清泉寮。訪れたのは3度目でした

このところの一連の、「聴く」に関する投稿は、西村さんのインタビューワークショップで出てきた話が、たくさん盛り込まれています。でも決して、ワークショップの内容をコピーして紹介しているわけではありません。

自分が産業カウンセラーの講座に行き始めた頃からこれまでの13年くらいの間に「聴く」に関する自分の体験や実践、考えたことや疑問、難しいなーと思うことなどが積もっていて、年末のワークショップの体験の中で、一回全部ガラガラポンをすることになりました。

で、そのときの体験を持って帰ってきて、ただ今自分の中で絶賛発酵中!という感じになっています。

今はだいたい2か月くらい寝かせたところですが、まだまだこれから熟成していく過程です。自分という樽の中にはまだたくさん、「聴く」の智慧が眠っています。

それをぼーっと寝かしているだけでなく、自分ごととして咀嚼し、行動としてアウトプットに反映できるよう、こうしてせっせと言葉を連ねている次第です。

なかなか言葉にならないのは、すぐに言葉にすると、質感がするっと抜け落ちてしまうので、それを防ぐ意味もありますが。

 
西村さんのワークショップ、5月開催分が今募集中のようです。時間とお金の許す方は、人生で一度この体験をしておくと、豊かな「聴く」生活を送れると思います。こんな機会がずっとあるわけではない(かもしれない)ので、はやいうちにどうぞ。

私はカウンセリング、セラピー、Tグループ、エンカウンターとか、ものすごーくいろんなところに参加してきたけれど、少なくともこのワークショップが、一番深く「聴く」を体験できました。それ以来私にとって西村さんは「聴くの仙人」になっています。

インタビューのワークショップ 2020・新緑の遠野編

https://www.livingworld.net/qmch/

 

混沌の中を、共に進んでいく覚悟をしよう~『ソクラティクダイアローグ』を読んで~

最近読んだこちらの本が、絶妙なタイミングでいろんなヒントや、これからの場づくりの方向性を与えてくれました。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

  • 作者:堀江 剛
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 
現在、日本で哲学カフェや哲学対話として行われているものには、アメリカ(ハワイ)のP4C(philosophy for children)からの流れ、フランスの哲学者マルク・ソーテからの流れ、そしてドイツのソクラティク・ダイアローグからの流れがあるそうです。日本では主催者によってそれらがごちゃまぜになっている(ような気がする)と、とある哲学カフェマスターさんがおっしゃっていました。

活発になった時期はそんなに差はなく、どこの国・地域でも1980年代~1990年代にかけて、日本では2000年代に入ってから全国で哲学カフェや哲学対話が行われています。

でもって、それぞれの流れに特徴があるようです。

考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)

の著者である東大の梶谷真司先生が以前講演会で、

「日本の哲学対話はハワイの子どもの哲学の影響を受けている。ハワイは多民族、異質、ホームレスが多いから、gently Socratic methodと呼ばれているように、お互いに受け止め合うことを目的にしている。フランスの哲学対話はきつい。追い詰められる」

ということをおっしゃっていました。
このあたりはまたどこかでちゃんと調べてまとめてみたいと思います。

で、今日の本題、ドイツからの流れのソクラティク・ダイアローグについてです。
まずは簡単に概要を。

●ソクラティク・ダイアローグ(SD)とは何か?

少人数の参加者(5~8名)で、一定のルールと進行役によって進められる哲学対話ワークショップ。1つのテーマの元で、参加者が自分たちで問いを立て、自らの経験に基づいて、問いに対する答えを、ゆっくり時間をかけて話し合って導き出す。標準的なものでは2日半時間をかける。

ソクラティク・ダイアローグの基本的な考え方を示したのは、1920-30年代に活動したドイツの哲学者レオナルト・ネルゾンという人で、どんな知的権威にも頼らないで考えることが「哲学」の本当の在り方だという信念からこの方法を編み出した。時を経て、1970-80年代頃、ネルソンの弟子、グスタフ・ヘックマンという教育学者が、このワークショップを一般市民にも広め、現在のような形になった。

1990年以降、ドイツ・イギリス・オランダなどで行われるようになり、特にオランダでは経営者やビジネスパーソンを相手に大きな成功を収めた。

具体的には、以下のようなステップで進んでいく。

①テーマを主催者が示す
②テーマに関しての例(自分が体験した経験)と、問いを参加者が出す。
③出し合った例と問いを、それぞれ一つ選ぶ。
④選ばれた例を詳しく記述し、その中から核になる文(core statement)を見つける。
⑤問いの答えを出し合い、対話によってグループとしてまとめる。

 

今回は手法を紹介することが目的ではなく、自分にとってヒントになった部分をまとめるということが主旨なので、これ以上の詳しい説明は避けます。

その前に、前提として、対話において常々私が「難しいなあ~」と感じているのが、言葉のやり取りの過程でどうしてもそこにズレが生じてしまうということです。ズレが生じることは大前提として、そこを丁寧に聴き合うことですり合わせていくことが対話ともいえるのですが、それにはやはり、お互いに聴き切るための姿勢や根気、時間が必要になります。

本書でもそういった問題点について以下のように述べられています。

キーワードのメモや参加者の記憶(だけ)を頼りに議論が進められるとすれば、どうしても、それぞれの参加者の「曖昧な記憶」や「勝手な解釈」が入り込む。それが議論の中に持ち込まれることにもなり、再びそれが曖昧に記憶・勝手に解釈される。こうしたものを積み重ねた(だけの)ものが、はたして対話・議論と呼べるようなものなのか。

(中略)対話・議論のプロセスという面からみると、それが本当に「かみ合っていた」かどうか、心もとない。結局それも、それぞれの参加者の「曖昧な記憶」と「勝手な解釈」に委ねられて終わるのだから。

そうならないための手続きとして、SDには以下のような特徴があるのではないかと解釈しています(あくまでも個人的な解釈ですが)。

1)本に書かれている知識ではなく自分の体験に基づいて話し合う
2)発言を簡潔なステートメントにする
3)時間をかける
4)メタ・ダイアローグをする
5)参加者からの不平のリスクがある

 

以下順番に。

1)本に書かれている知識ではなく自分の体験に基づいて話し合う

「本で読んだ知識を持ち込まない」「自分以外の人の体験を話さない」というルールが明確で、専門的な用語などは、進行役もしくは他の参加者から言い換えるように促されます。また、具体的な例を出すときに、本人が体験した以外の(人から聞いた)話は取り上げられないので、取り上げられた例の詳細が、感情なども含めて、細かく本人に確認を取りながら記述することが可能になります。そしてその記述した一つの例についてだけ、検討を重ねていくため、参加者同士の視点がずれにくくなります(ずれないわけではない)。


2)発言を簡潔なステートメントにする

ちょっと長くなりますが、本書から引用をすると

文章化の作業は、個々の参加者にとって、とてつもなく考えることを強要する。(中略)参加者は、自分の思ったこと・考えたことを、特に難しいと感じることもなく自然に口にする。しかし、その考えを、あらためて「簡潔な文章にすれば、どうなりますか」と促されたとすれば、どうか。そう簡単ではない。自分の考えを、再度自分の頭で整理し直し、自分は何が言いたかったのか、もう一度吟味する必要に迫られる。

あるいは、短い思いつきを述べたとしても、それを「文章にして下さい」と言われたとする。今しがた、自分が喋ったことなのに、忘れてしまっている場合が多いのである。

同じことは、発言を聞いている参加者にも言える。口頭のやりとりで、わたしたちは相手の言ったことを、確かに理解はしていても、正確には記憶していない。それでも会話は十分に成り立つ。しかし、そこに「文章化」という作業を差しはさむだけで、人は大変な困難を覚える。

SDではこの作業が繰り返される。
進行役は助言したり要約したりすることはなく、他の参加者に「理解できたと思った人は、彼/彼女の言ったことを変わって文章にしてあげてみて下さい」と援助を促す。

この文章化の作業は、参加者個人を考えさせるだけではない。それは「グループが考える」ということでもある。書き出された文章たちは、それぞれの参加者が出した「意見opinion」ではなく、グループが対話の中で考え出した「言明statement」の集積である。

このように、statementを集積していくというのが、SDの大きな特徴と言えます。

誰かが思いつきで発言をしたとしても、その発言した本人と、それを聞いていた他の参加者が「そうだ」と納得するまで文章にすることを、ある意味しつこく、繰り返し行っていくわけです。

これだけで、文章化を面倒くさがる人が出たり、非常に時間がかかるであろうことが容易に予想できます。


3)時間をかける

SDでは、テーマは主催者が決めたとしても、事例と問いを決めるのに相当の時間をかけます。本書の著者が体験したワークショップでは3日間のうち、問いが決まるまでに2日目の途中までの合計5セッション、10時間かかったそうです。その理由として、

「問い」や「問題」といったものは、あらかじめ決まっているか、参加者が個々に携えているものとして出発するのが、対話・議論の一般的なイメージである。SDはそのイメージを壊す。本当は「問い方」の微妙な違い、着眼点の違いや関心の方向性の違いなど、さまざまなずれが対話・議論を始める前にある。列挙された「問い方」を見ても、その多様性や豊かさが伺い知れるであろう。一つのテーマであっても、その「問い方」は参加者によって実にさまざまであり、まずはその「違い」を、リストのかたちで見えるようにするのである。

しかも、これらの「問い」たちは、進行役によって非常に丁寧に聞き出され、シンプルな文章の形へと定式化される。(中略)あれこれ考えて上手く言えないときには、辛抱強く待ってくれる。他の参加者にも協力を促すとともに、みんながその「問い」を理解できているか、いちいち確認するのである。

問いを出し合い、その中から一つを選ぶプロセスにおいて、参加者それぞれの違いがまず明らかになっていきます。違いが十分に見えていなければ、それらをすり合わせていったとしても、見えない部分の妥協や不平、理解されていない部分が残る可能性があります。

丁寧に「違う」ということを共有していくことが、まさにそのあと共に考えていくための手続きになっているわけです。

私はこの時間をかけるということが、一番重要な考え方と受けとっています。

SDでは、一つのテーマに対して、一つの事例、一つの問いで探求をし、一つの答えを導き出すために、標準で2日半時間をかけます。それだけ時間をかけても、答えにまでたどり着かないことも多いそうです。

そう聞くともういきなり、「ああ、それは実際にやるの難しいね」という声が聞こえてきそうです。本書の中で取り上げられている2つの事例のうち、一つは1日に短縮して実施していますが、参加者の事後のアンケートで、不完全燃焼感があちこちから漏れています(後述)。

通常、市中で行われている哲学対話は2時間や3時間くらいです。その場で、このSDの手続きを実施できるわけがありません。だから勘違いしてはいけないのは、主催する側も、参加する側も、対話のレベルや共通の到着地点のレベルを高く望み過ぎては、期待とのアンマッチが起こるのも無理はない、ということです。

重要なのは人々が対話をしてなんらかの共通の場所にたどり着くには、時間がかかると肝に銘じること。これはSDに限らず、対話のファシリテーションに携わる人すべてに共通のことだと考えます。

また、実際にSDを実施する場合、もしも時間を確保して実施できたとしても、ある種の混沌に耐えられる参加者でないと、厳しい場になりうるだろうということが予測できます。

私は本書を読んでいて、そのプロセスの質が、以前何度か実施したフューチャーサーチに似ていると思いました。フューチャーサーチはプロセスがジェットコースターに例えられますが、途中、葛藤が起こり、先の見えない混沌の中を進むようなプロセスを通ります。

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以前フューチャーサーチを実施したときの写真です

その葛藤を乗り越えることができればこそ、本当に実現したい未来が切実に描かれて、そのためのコミットメントが生まれるわけなのですが、進行役は参加者の力を信じ切ることと、とても大きなホールド力が求められます。

SDも、フューチャーサーチと手続きは異なるけれども、時間をかけてすり合わせをしていく中で、あきらかに葛藤や混沌が生まれそうな可能性を多大に孕んでいると思いました。そしてそのために、メタ・ダイアローグという対応策が組み込まれています。


4)メタ・ダイアローグをする

SDでは、かなり厳密に、文章化や参加者の理解を確認していきます。すると途中で、何かしらの解釈について意見がおりあわず、紛糾することが起こり得ます。

そんな風に対話・議論が紛糾しても、進行役は「あなたたち自身が対話によって解決してください」という姿勢を崩さないそうです。進行役は対話の内容に関する事柄にはタッチしないというルールで進めているからです。

そこで、複雑な状況に陥ったときは、参加者からの提案により、メタ・ダイアローグを行うことができます。どのように対話を進めるのかについて、グループが対話をする時間となります。

先に書いたフューチャーサーチでも、咄嗟の判断でメタ・ダイアローグの時間を入れたことがありましたが、自分たちの対話のプロセスをメタで見ることができると、建設的な対話に戻っていくことができます。このメタ・ダイアローグがあるからこそ、SDの厳密ともいえる手続き(進め方)が成立するのではないでしょうか。


5)参加者からの不平のリスクがある

参加者の多くは、対話・議論というと、自分の考えを自由に発言することをイメージします。そのため、SDの進め方を丁寧に説明したとしても、その事前のイメージと比べて、「発言を制限された」、「十分に発言できなかった」という声がどうしても出るようです。

ある意味そのイメージを、対話によって壊すことがSDであると著者は述べていますが、参加者のそのイメージが強固なほど、さらに時間がかかるということも言えます。

でも、ここでいう不平は、昨日投稿した「もやもや」「わからない」のように、

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その個人の前提・想定から来ている(ことが多い)ものです。そこを体験的に壊していく場になるには、SDくらいの「しつこさ」が必要ではないかと、思っている次第です。

いずれにしても、本書によって、

・時間はかかるものだと覚悟する

・混沌の中を共に進んでいく覚悟をする

という方向性を、自分のなかであらためて確認しました。
(なんとなくこれ、自分のドミナントストーリーな気もしなくないが…)


ここまで、自分の解釈で、内容をつまみ拾いしていますので、これがSDだと思わず、興味を持たれた方はぜひ、本書をお手にとってみてください。 

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

  • 作者:堀江 剛
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 
とはいえ、本を読んだだけでは、想像の域を出ません。
まずは体験してみたいのですが、検索した限りでは直近での開催は見つけられず。

実践をしている先生に依頼をしてみるとしても、時間的な厳しさもある。
1日確保することはできたとしても、さすがに3日間というのは現実的じゃない。

まずは3人で3時間とか6人で6時間とか、ミニSDという形で自分で実施してみるといいのかな?とあれこれ画策中です。

いやー、今日は長くなってしまいました(5920字だって!)。
もしここまで読んでくれた人がいたら、おつかれさまです。
ありがとうございます。

その「もやもや」はどこから来ているのか?

哲学対話に参加するとよく聞こえてくる言葉のNo.1は「もやもや」という言葉です。哲学対話では「もやもや」で表現されるように、「わからない」状況・状態に陥ることがよくあります。でも、個人的にはその「わからない」には、いくつかの種類があるように思います。そこで今日は、その「わからない」について考えてみます。

ちなみに、哲学対話の体験をベースに書きますが、ここに書くことは別に哲学対話に限らず、おそらくいろんな対話の場でよく起こることだと思いつつ書いてます。

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1)健全な「わからない」

普段当たり前だと思っていたことが、「本当にそうなのかな?」とわからなくなったり、誰かの意見を聞いて、「自分とは違うな、どうしてだろう?」とわからなくなったり、「○○と▲▲はどうちがうんだろう?」とわからなくなったり。

それは健全な「わからない」で、ある意味哲学対話の醍醐味であるとも言えます。自分の中に新たな問いが生まれたり、問いが深まったりするからです。

こういった種類の「わからない」からくるもやもやは、それこそ哲学対話でよく言われる「おみやげ」なので、大切に持ち帰って、引き続き自分で考えてみたり、身近な人と話してみたりするといいものです。

 

でも、違う意味での「わからない」もよくあります。どっちかっていうと、個人的にはこっちのことに対して「もやもや」という言葉が使われていることが多いような気がします。

2)「何」を話しているかわからない

・話の内容が専門的すぎてわからない。これは当然知ってるでしょという前提で話されるのでわからない。
・話の内容があいまいすぎたり、主語が省略されて誰の何のことなのかわからなかったり、つながりが不明瞭だったりして、その人が何を話しているかわからない。

→哲学対話では専門用語を使わないで、と伝える場が多いので、前者は少ないかもしれません。後者はわからなかったのでもう少し教えてくださいと確認していく必要があります。

3)「なぜ」それを話しているかわからない

・これまでの話の中の何に関連してその人が今それを話しているのか?がわからない。
なぜそんなにも、その人がそのことを(ときに繰り返し)主張するのか?がわからない。

→その人が発言している背景がわからないというもの。これもどうつながっているかを確認したり、その人の主張を受け止めたりする必要がありそうです。

4)「何について」考えればいいかわからない

哲学対話では、主に下記の3つの進め方がありますが、

・テーマ(問い)が何も決まっておらず、集まった人がその日話し合う問いを出し合って決めてから、対話をする場合
・主催者が決めたテーマ(問い)について話す場合(例:働くとはどういうことか?)
・大きなテーマだけ(例:「仕事」)を主催者が決めておき、対話の流れの中でテーマに関連した問いが参加者から出され変遷していく場合

どのような進め方がされたとしても、多様な人が集まる場では、多様な「視点」や「問い」、「テーマに関連した体験」などが出されます。話が進んでいくと、それらが交錯していき、発言する人によって視点がめまぐるしく動きます。すると、今のこの時間「自分は果たして何について考えればいいのか?」がわからない、ということが起こることがあります。

→これは私にとっても探求テーマだったので、また別の投稿に書きます。

5)これが哲学対話といえるのかわからない

場によっては、みんながただ単に好き勝手に話して、それで2時間が経過し、「今日もたくさん話せたね」「今日もたくさん聞いてもらえてよかった」と帰っていく。果たしてそれが哲学対話なのか?と疑問がわく。

→この5)に関しては、人から聞いた話で、自分が直接体感したものではないので、この投稿でのコメントは差し控えます。

 

で。
ここで重要なのが、上記の2)~4)の「わからない」は、自分の前提、想定が強固な程、起こりやすいのではないか?ということ。言い換えると「納得がいかない」「腑に落ちない」「違和感がある」っていう感じの「わからない」なのではないか、ということです。

これは「普通~するでしょ」「○○するべき」みたいなものががっつり育っている人ほど、その想定にそわない場に対して、違和感を感じたり、イライラしたり、コントロールしようとしたり、他人にいちゃもんをつけたりする。

かくいう私も、上記2)~4)の「わからない」で、結構長らくもやもやしていました。ただ、最初は「もやもや」自体が「もやもや」していて(言葉遊びみたいになってますが笑)よくわからなかったので、いろんな人の主催する哲学カフェに行き、哲学カフェのファシリテーター養成講座に参加して、哲学対話関連の書籍をあれこれ読んで、そして自分でも開催してみたなかで、ああ「わからない」には種類があって、その「わからない」がどこから来ているかが大事なんだなと思うようになりました。

特に2)~4)の「わからない」は、自分の前提や想定に気づき、ボーム(※)がいうようにそれを「保留」するための貴重な機会になります。なので、「今のこのもやもやはどこから来ているのか?」と自分の声を聴き、もやもやを探っていくことが、対話を行っていく上で、とても重要なことになるのではないでしょうか。そうでないとおそらく、もやもやの繭の中に入ったままになってしまい、人の話をしっかり聴き届けることができないだろうなと。


ボーム(※)、とさらっと書きましたが、補足説明&引用をしておきます(以前、自社のメルマガでも書いたものです)。

ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

 

 
『ダイアローグ』の著者、デヴィット・ボームは、「なぜ対話が必要なのか?」という問いに対して、「誰もが異なった想定や意見を持っているからだ」と答えます。

ここでいう想定や意見とは、表面的なものではなく、その人が本当に重要と考えていることです。信念と言い換えられるかもしれません。

人は自分の想定を正当化せずにいられない場合が多く、感情的に相手を攻撃することで、それを守ろうとしがちである。

自分の意見に固執していては、対話などできまい。その上、意見を守っていることに自分で気づいていない場合が多い。意図的な行動でない場合がほとんどなのである。

(対話においては)想定を持ち出さず、また押さえもせずに、保留状態にすることが求められる。そうした想定を信じるのも信じないのも禁止だし、良いか悪いかの判断をしてもいけない。

求められるのは、対話しているときの思考と、体が表す喜怒哀楽、そして情動との関連性に気づくことである。

敵意であれ、他のどんな感情であれ、自分の反応に気づくことが必要だ。

 オンゴーイングで対話をしながらこれらに気づくことは、かなりレベルの高いことだと思いますが、哲学対話に参加して「もやもや」したあとに、じっくり自分の内的な反応を振り返ることで、気づきやすくなるのでは、と思っています。



さてさて。
そんな「もやもや」「わからない」を探りながら最近読んだこちらの本が、絶妙なタイミングでいろんなヒントや、これからの場づくりの方向性を与えてくれました。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

  • 作者:堀江 剛
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


ここまで思ったより長くなってしまったので、続きは投稿を分けて書きます。

 

その質問はどこから来ているのか?

またまた、聴くことについて。

今回、一連の投稿で書いている「聴く」というのは、講演やスピーチを聞くとか、おしゃべりのときの聞くではなく、

対話の場や相談の場で、話し手の話を、聞き手が聴くという状況を想定しています。
こういう状況のとき話し手は、なにかしらの答えや目的地が見えていないことについて話すことが多いという前提で書いています。

 

人の話を聴いているとき、質問はとても有効な手段となります。

・何かの意味や話がよくわからなかったとき
・話し手の思考をうながすとき
・視点を変えるとき
・言葉の奥の気持ちや感覚にフォーカスしてもらうとき
・聞いていることをアピールしたいとき

こんなふうに、聞き手が質問をするときには、目的や理由があります。おそらく大部分の方は「話し手のために」「話し手の助けになれば」と思って質問していることが多いでしょう。

でも。
その質問は、本当に話し手が目的地に向かう助けになっているのか?
ということを、よーく考える必要があるのではないでしょうか、というのが今日の内容です。

この↓図はあくまでも、自分自身が話をしているときの体感を通したイメージなのですが(そして絵に構築するスキルが稚拙で伝わるか不安なのですが)、

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この図のA、B、C、D、Eのように、最初に言葉として出てきやすいものというのは、具体的な出来事であったり、すでに一度(何度も)考えたことであったり、どこかで誰かが言っていたことであったり、自分の中で意味づけをしてしまったものだったりします。

だから極端に言ってしまうと、話し始めというのは雪かきを始めたばかりのような状態。本当に言いたいことが出てきやすくなるための、通り道を作り始める段階です。

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話し手が、自分が本当に言いたいことに到達するためには、その上に覆いかぶさっているもの、からまりあっているもの、通り道を塞いでいるものなどを、順番に取り除いていく必要があります。上にあるものをまず出さないと、本当に言いたいことは出てこられないからです。

よく目撃するのは(自分の体験も含めて)、そんなにまだあまり取り除かれていない段階で、表に出てきた「言葉になったもの」に対して、聞き手から質問が投げかけられるという状況です。

この質問が、取り除くことを助ける方向にマッチしていれば問題ないのですが、ズレていた場合、話し手が本来雪かきをしたかったはずの場所ではなく、なぜか別のところの雪かきをやらなくてはいけなくなる可能性が出てきます。

つまり、話し手は自力でせっせ、せっせと作っていた通り道をいったん置いといて、「聞き手からの質問に答えるための道」を新たに雪かきする(言葉をさがす)ことになりかねない

話し手さえも、自分の中の絡まり具合がどんな感じかわかっていない状況で、聞き手はもちろんそれが見えるわけではない。こういうとき聞き手は、自分で思うよりも長く、待ってみる必要があるのではと思います。


あともう一つよく目撃する状況は、「なぜAだと感じたんでしょうかね?」という「WHY」の質問。一見、より深くそのことについて考えて、その奥にあるさらに本質的な答えにいきやすいように思えます。

ところが、以前何かの記事にありましたが、人は「なぜ?」を問われると、答えを見つけて落ち着くために、そのときに浮かんできたものを理由にしてしまう傾向があるそうです。これは結局、取り除かれていない上の方のことを言っているにすぎないことが多い。
そして、もっともらしい答えを言っているうちに自分が本当にそう思っている気になってしまう。これでは本当に言いたいことにはたどり着けません。

 

なので、聞き手は質問をするときに「その質問はどこから来ているのか?どこにフォーカスを当てているのか?」を意識する必要があります。なぜなら、相手の本当の言いたいことを聴こうと思っていたら、追い越さない聴き方をして、安易な質問は出ないはずだからです。

かといって、ただ黙って聴いていればいいってわけではなく、ちゃんと一緒について行く必要があります。じゃあ具体的にどうやって聴くの?というのはまた改めて。
(こうして改めての雪が積もっていく…)

 

<追記>
ちなみに上の図の状況、自分で何かを書くときもまったく同じで、なんか「これを書きたい!」と思っても、自分でも結局何が言いたいのか見えないから、evernoteとかメモ帳とかwordとかに、まずは出てくるままダーッと打ってみて、そのダーッと打っているものを整えてUPできるように調整しているうちに、「あ、私はこれが言いたかったんだ!」と気づくときもあるし、「うーん、結局何が言いたかったか自分でもよくわかんないけど、とりあえずここまで通り道を作っておこう」というときもあります。

 

 

陥りやすい「わかる~」の罠

引き続き、聴くことについて。

このテーマ、相当書きたいことがたまっているのですが、ぜんぜん整理しきれてないので、ぽつぽつとアップしていければと思います。
あ、私は全部できているというわけでなく、ひとまず、自分のことを棚にあげて書きます(^^;

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●陥りやすい「わかる~」の罠

たとえば、AさんとBさんの友人同士が会話をしているとします。

Aさん:「この前さ、仕事で後輩が書類を間違えてたから、教えてあげたら、『ああ、そっか』って言われたの。そっか、って。それだけだよ!」

Bさん:「わかる~。最近の子ってさ、なんか周り見えてないよね。うちの会社でもさ、後輩にそういう子いる」

Aさん:「でね、こっちもさ、注意して機嫌悪くなったらいやだなと思って、結構気を使って言うようにしてるのよ、いつも。うるさいオバさんだなーとか思われたくないし」

Bさん:「そうそう。うちの後輩もなんかすぐふてくされるんだよね。子どもかっつーの」

Aさん:「ねー、子どもっぽいんだよね」

Bさん:「だからその子、陰で”バルーン”ってあだ名で呼ばれてる。すぐふくれるから(笑)」

Aさん:「(笑)。でね、うちのその後輩なんだけど・・・」


「わかる~」とか「そうそう」とか、一見、BさんがAさんの言うことに共感(実際は同調)して聞いているように見えます。でもすぐにBさんが自分の文脈に持っていくので、Aさんが今度は逆に合わせに行っている。AさんはBさんに一回応答し、それからまた自分の文脈に戻る、というちょっと大回りをしています。

このAさんが話そうとしている状況や感じていることと、Bさんの発言に出てくる状況と感じていることは、もしかしたら「似ている」かもしれないけれど、決して「同じ」ではない。これ文字で読むと、そりゃそうでしょと思われるかもしれませんが、この程度のこと、よくやらかしてしまってないでしょうか?

 

Bさんは、Aさんの話を理解するのに、自分の持っている経験に照らして聞いているので、自分の中の類似の体験を思い出し、それを相手の前に出したくなってしまっているようです。

さらにまずいのは、「私もこういうことがあって、そのとき同じ気持ちになった」「それっていやだよね」みたいに、Bさんがさもわかったかのように思ってしまうこと。それが一番表れる言葉が「わかる~」という言葉です。

「わかる」と思った時点で、「わかっていない」ところが瞬時にこぼれ落ちる。置き去りになる。

Aさんが本当に言いたいことは、話し始めのAさんも実はわかっていないことが多い。だから、当然Bさんにはわからない。でもBさんから「わかる~」が出てしまうと、そのあとAさんが本当に話したいことを話すことも、BさんがAさんの本当の気持ちを聴いていくことも、難しい、時間がかかる道のりになってしまいます。

そこで聞き手のBさんに必要なのは、まずは「わかる~」をバシッと封印すること。
そして、自分の経験に照らしてきかない。
短い応答で、その先を待ってみる。

これ、簡単に書いてますが、実際やってみると難しいです。
※特に「自分の経験に照らさずにどうやって聴くのか?」という部分。これはたっぷり書きたいことがあるのでまた別途。

そんなとき、一番参考になる聴き方は「すべらない話」に出てくる芸人さんたちです。
決して話している人を追い越して、余計なことを言ったりしない。

「ほうほう。そやねんな~。そんでそんで」

そうすることで、話し手は自分の話を、自分の話したい方向に向かって、安心して展開していけるわけです。

 

じゃあ今回の例の場合はどうすればいいかっていうと、例えば、

Aさん:「この前さ、仕事で後輩が書類を間違えてたから、教えてあげたら、『ああ、そっか』って言われたの。そっか、って。それだけだよ」

Bさん:「それだけ?」

Aさん:「こっちもさ、注意して機嫌悪くなったらやだなと思って、結構気を使って言うようにしてるの。うるさいなーとか思われたくないし。こっちの気持ちも知らないでさー。普通すみませんとか言うだろうと思うんだけど…」

Bさん:「けど…?」

Aさん:「でも、よくよく考えてみると、後輩も可哀そうなんだよね…。まだ仕事に慣れてないのに、いっぺんにいろんな人から仕事頼まれて、少し混乱してるのかも」

Bさん:「混乱してる…」

Aさん:「うん、そう。たぶん、混乱してるんだと思う。うちの会社、仕事のふりかたが結構おおざっぱで、私も最初の頃よくパニクってたんだよね。そうだよね、そもそも仕事のふりかたが原因なのかもしれないな~。今のままだとみんな余計なストレスがどんどんたまっていくかも」

 

これはあくまでも架空の話なので簡単に展開していますが、AさんはBさんが聴いてくれたおかげで、後輩の応対のその奥にある背景にまで考えが至っています。こんな風に「邪魔をしない」で聴くというのは、一つ大切なことではないかと思います。

ポイントは単なる「あいづち」や「オウム返し」とは違うということ。
これもまた誤解を生みやすいので、また投稿をあらためて書きます。

 

 

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