混沌の中を、共に進んでいく覚悟をしよう~『ソクラティクダイアローグ』を読んで~
最近読んだこちらの本が、絶妙なタイミングでいろんなヒントや、これからの場づくりの方向性を与えてくれました。
現在、日本で哲学カフェや哲学対話として行われているものには、アメリカ(ハワイ)のP4C(philosophy for children)からの流れ、フランスの哲学者マルク・ソーテからの流れ、そしてドイツのソクラティク・ダイアローグからの流れがあるそうです。日本では主催者によってそれらがごちゃまぜになっている(ような気がする)と、とある哲学カフェマスターさんがおっしゃっていました。
活発になった時期はそんなに差はなく、どこの国・地域でも1980年代~1990年代にかけて、日本では2000年代に入ってから全国で哲学カフェや哲学対話が行われています。
でもって、それぞれの流れに特徴があるようです。
考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)
の著者である東大の梶谷真司先生が以前講演会で、
「日本の哲学対話はハワイの子どもの哲学の影響を受けている。ハワイは多民族、異質、ホームレスが多いから、gently Socratic methodと呼ばれているように、お互いに受け止め合うことを目的にしている。フランスの哲学対話はきつい。追い詰められる」
ということをおっしゃっていました。
このあたりはまたどこかでちゃんと調べてまとめてみたいと思います。
で、今日の本題、ドイツからの流れのソクラティク・ダイアローグについてです。
まずは簡単に概要を。
●ソクラティク・ダイアローグ(SD)とは何か?
少人数の参加者(5~8名)で、一定のルールと進行役によって進められる哲学対話ワークショップ。1つのテーマの元で、参加者が自分たちで問いを立て、自らの経験に基づいて、問いに対する答えを、ゆっくり時間をかけて話し合って導き出す。標準的なものでは2日半時間をかける。
ソクラティク・ダイアローグの基本的な考え方を示したのは、1920-30年代に活動したドイツの哲学者レオナルト・ネルゾンという人で、どんな知的権威にも頼らないで考えることが「哲学」の本当の在り方だという信念からこの方法を編み出した。時を経て、1970-80年代頃、ネルソンの弟子、グスタフ・ヘックマンという教育学者が、このワークショップを一般市民にも広め、現在のような形になった。
1990年以降、ドイツ・イギリス・オランダなどで行われるようになり、特にオランダでは経営者やビジネスパーソンを相手に大きな成功を収めた。
具体的には、以下のようなステップで進んでいく。
①テーマを主催者が示す
②テーマに関しての例(自分が体験した経験)と、問いを参加者が出す。
③出し合った例と問いを、それぞれ一つ選ぶ。
④選ばれた例を詳しく記述し、その中から核になる文(core statement)を見つける。
⑤問いの答えを出し合い、対話によってグループとしてまとめる。
今回は手法を紹介することが目的ではなく、自分にとってヒントになった部分をまとめるということが主旨なので、これ以上の詳しい説明は避けます。
その前に、前提として、対話において常々私が「難しいなあ~」と感じているのが、言葉のやり取りの過程でどうしてもそこにズレが生じてしまうということです。ズレが生じることは大前提として、そこを丁寧に聴き合うことですり合わせていくことが対話ともいえるのですが、それにはやはり、お互いに聴き切るための姿勢や根気、時間が必要になります。
本書でもそういった問題点について以下のように述べられています。
キーワードのメモや参加者の記憶(だけ)を頼りに議論が進められるとすれば、どうしても、それぞれの参加者の「曖昧な記憶」や「勝手な解釈」が入り込む。それが議論の中に持ち込まれることにもなり、再びそれが曖昧に記憶・勝手に解釈される。こうしたものを積み重ねた(だけの)ものが、はたして対話・議論と呼べるようなものなのか。
(中略)対話・議論のプロセスという面からみると、それが本当に「かみ合っていた」かどうか、心もとない。結局それも、それぞれの参加者の「曖昧な記憶」と「勝手な解釈」に委ねられて終わるのだから。
そうならないための手続きとして、SDには以下のような特徴があるのではないかと解釈しています(あくまでも個人的な解釈ですが)。
1)本に書かれている知識ではなく自分の体験に基づいて話し合う
2)発言を簡潔なステートメントにする
3)時間をかける
4)メタ・ダイアローグをする
5)参加者からの不平のリスクがある
以下順番に。
1)本に書かれている知識ではなく自分の体験に基づいて話し合う
「本で読んだ知識を持ち込まない」、「自分以外の人の体験を話さない」というルールが明確で、専門的な用語などは、進行役もしくは他の参加者から言い換えるように促されます。また、具体的な例を出すときに、本人が体験した以外の(人から聞いた)話は取り上げられないので、取り上げられた例の詳細が、感情なども含めて、細かく本人に確認を取りながら記述することが可能になります。そしてその記述した一つの例についてだけ、検討を重ねていくため、参加者同士の視点がずれにくくなります(ずれないわけではない)。
2)発言を簡潔なステートメントにする
ちょっと長くなりますが、本書から引用をすると
文章化の作業は、個々の参加者にとって、とてつもなく考えることを強要する。(中略)参加者は、自分の思ったこと・考えたことを、特に難しいと感じることもなく自然に口にする。しかし、その考えを、あらためて「簡潔な文章にすれば、どうなりますか」と促されたとすれば、どうか。そう簡単ではない。自分の考えを、再度自分の頭で整理し直し、自分は何が言いたかったのか、もう一度吟味する必要に迫られる。
あるいは、短い思いつきを述べたとしても、それを「文章にして下さい」と言われたとする。今しがた、自分が喋ったことなのに、忘れてしまっている場合が多いのである。
同じことは、発言を聞いている参加者にも言える。口頭のやりとりで、わたしたちは相手の言ったことを、確かに理解はしていても、正確には記憶していない。それでも会話は十分に成り立つ。しかし、そこに「文章化」という作業を差しはさむだけで、人は大変な困難を覚える。
SDではこの作業が繰り返される。
進行役は助言したり要約したりすることはなく、他の参加者に「理解できたと思った人は、彼/彼女の言ったことを変わって文章にしてあげてみて下さい」と援助を促す。この文章化の作業は、参加者個人を考えさせるだけではない。それは「グループが考える」ということでもある。書き出された文章たちは、それぞれの参加者が出した「意見opinion」ではなく、グループが対話の中で考え出した「言明statement」の集積である。
このように、statementを集積していくというのが、SDの大きな特徴と言えます。
誰かが思いつきで発言をしたとしても、その発言した本人と、それを聞いていた他の参加者が「そうだ」と納得するまで文章にすることを、ある意味しつこく、繰り返し行っていくわけです。
これだけで、文章化を面倒くさがる人が出たり、非常に時間がかかるであろうことが容易に予想できます。
3)時間をかける
SDでは、テーマは主催者が決めたとしても、事例と問いを決めるのに相当の時間をかけます。本書の著者が体験したワークショップでは3日間のうち、問いが決まるまでに2日目の途中までの合計5セッション、10時間かかったそうです。その理由として、
「問い」や「問題」といったものは、あらかじめ決まっているか、参加者が個々に携えているものとして出発するのが、対話・議論の一般的なイメージである。SDはそのイメージを壊す。本当は「問い方」の微妙な違い、着眼点の違いや関心の方向性の違いなど、さまざまなずれが対話・議論を始める前にある。列挙された「問い方」を見ても、その多様性や豊かさが伺い知れるであろう。一つのテーマであっても、その「問い方」は参加者によって実にさまざまであり、まずはその「違い」を、リストのかたちで見えるようにするのである。
しかも、これらの「問い」たちは、進行役によって非常に丁寧に聞き出され、シンプルな文章の形へと定式化される。(中略)あれこれ考えて上手く言えないときには、辛抱強く待ってくれる。他の参加者にも協力を促すとともに、みんながその「問い」を理解できているか、いちいち確認するのである。
問いを出し合い、その中から一つを選ぶプロセスにおいて、参加者それぞれの違いがまず明らかになっていきます。違いが十分に見えていなければ、それらをすり合わせていったとしても、見えない部分の妥協や不平、理解されていない部分が残る可能性があります。
丁寧に「違う」ということを共有していくことが、まさにそのあと共に考えていくための手続きになっているわけです。
私はこの時間をかけるということが、一番重要な考え方と受けとっています。
SDでは、一つのテーマに対して、一つの事例、一つの問いで探求をし、一つの答えを導き出すために、標準で2日半時間をかけます。それだけ時間をかけても、答えにまでたどり着かないことも多いそうです。
そう聞くともういきなり、「ああ、それは実際にやるの難しいね」という声が聞こえてきそうです。本書の中で取り上げられている2つの事例のうち、一つは1日に短縮して実施していますが、参加者の事後のアンケートで、不完全燃焼感があちこちから漏れています(後述)。
通常、市中で行われている哲学対話は2時間や3時間くらいです。その場で、このSDの手続きを実施できるわけがありません。だから勘違いしてはいけないのは、主催する側も、参加する側も、対話のレベルや共通の到着地点のレベルを高く望み過ぎては、期待とのアンマッチが起こるのも無理はない、ということです。
重要なのは人々が対話をしてなんらかの共通の場所にたどり着くには、時間がかかると肝に銘じること。これはSDに限らず、対話のファシリテーションに携わる人すべてに共通のことだと考えます。
また、実際にSDを実施する場合、もしも時間を確保して実施できたとしても、ある種の混沌に耐えられる参加者でないと、厳しい場になりうるだろうということが予測できます。
私は本書を読んでいて、そのプロセスの質が、以前何度か実施したフューチャーサーチに似ていると思いました。フューチャーサーチはプロセスがジェットコースターに例えられますが、途中、葛藤が起こり、先の見えない混沌の中を進むようなプロセスを通ります。
その葛藤を乗り越えることができればこそ、本当に実現したい未来が切実に描かれて、そのためのコミットメントが生まれるわけなのですが、進行役は参加者の力を信じ切ることと、とても大きなホールド力が求められます。
SDも、フューチャーサーチと手続きは異なるけれども、時間をかけてすり合わせをしていく中で、あきらかに葛藤や混沌が生まれそうな可能性を多大に孕んでいると思いました。そしてそのために、メタ・ダイアローグという対応策が組み込まれています。
4)メタ・ダイアローグをする
SDでは、かなり厳密に、文章化や参加者の理解を確認していきます。すると途中で、何かしらの解釈について意見がおりあわず、紛糾することが起こり得ます。
そんな風に対話・議論が紛糾しても、進行役は「あなたたち自身が対話によって解決してください」という姿勢を崩さないそうです。進行役は対話の内容に関する事柄にはタッチしないというルールで進めているからです。
そこで、複雑な状況に陥ったときは、参加者からの提案により、メタ・ダイアローグを行うことができます。どのように対話を進めるのかについて、グループが対話をする時間となります。
先に書いたフューチャーサーチでも、咄嗟の判断でメタ・ダイアローグの時間を入れたことがありましたが、自分たちの対話のプロセスをメタで見ることができると、建設的な対話に戻っていくことができます。このメタ・ダイアローグがあるからこそ、SDの厳密ともいえる手続き(進め方)が成立するのではないでしょうか。
5)参加者からの不平のリスクがある
参加者の多くは、対話・議論というと、自分の考えを自由に発言することをイメージします。そのため、SDの進め方を丁寧に説明したとしても、その事前のイメージと比べて、「発言を制限された」、「十分に発言できなかった」という声がどうしても出るようです。
ある意味そのイメージを、対話によって壊すことがSDであると著者は述べていますが、参加者のそのイメージが強固なほど、さらに時間がかかるということも言えます。
でも、ここでいう不平は、昨日投稿した「もやもや」「わからない」のように、
その個人の前提・想定から来ている(ことが多い)ものです。そこを体験的に壊していく場になるには、SDくらいの「しつこさ」が必要ではないかと、思っている次第です。
いずれにしても、本書によって、
・時間はかかるものだと覚悟する
・混沌の中を共に進んでいく覚悟をする
という方向性を、自分のなかであらためて確認しました。
(なんとなくこれ、自分のドミナントストーリーな気もしなくないが…)
ここまで、自分の解釈で、内容をつまみ拾いしていますので、これがSDだと思わず、興味を持たれた方はぜひ、本書をお手にとってみてください。
とはいえ、本を読んだだけでは、想像の域を出ません。
まずは体験してみたいのですが、検索した限りでは直近での開催は見つけられず。
実践をしている先生に依頼をしてみるとしても、時間的な厳しさもある。
1日確保することはできたとしても、さすがに3日間というのは現実的じゃない。
まずは3人で3時間とか6人で6時間とか、ミニSDという形で自分で実施してみるといいのかな?とあれこれ画策中です。
いやー、今日は長くなってしまいました(5920字だって!)。
もしここまで読んでくれた人がいたら、おつかれさまです。
ありがとうございます。