日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

その質問はどこから来ているのか?

またまた、聴くことについて。

今回、一連の投稿で書いている「聴く」というのは、講演やスピーチを聞くとか、おしゃべりのときの聞くではなく、

対話の場や相談の場で、話し手の話を、聞き手が聴くという状況を想定しています。
こういう状況のとき話し手は、なにかしらの答えや目的地が見えていないことについて話すことが多いという前提で書いています。

 

人の話を聴いているとき、質問はとても有効な手段となります。

・何かの意味や話がよくわからなかったとき
・話し手の思考をうながすとき
・視点を変えるとき
・言葉の奥の気持ちや感覚にフォーカスしてもらうとき
・聞いていることをアピールしたいとき

こんなふうに、聞き手が質問をするときには、目的や理由があります。おそらく大部分の方は「話し手のために」「話し手の助けになれば」と思って質問していることが多いでしょう。

でも。
その質問は、本当に話し手が目的地に向かう助けになっているのか?
ということを、よーく考える必要があるのではないでしょうか、というのが今日の内容です。

この↓図はあくまでも、自分自身が話をしているときの体感を通したイメージなのですが(そして絵に構築するスキルが稚拙で伝わるか不安なのですが)、

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この図のA、B、C、D、Eのように、最初に言葉として出てきやすいものというのは、具体的な出来事であったり、すでに一度(何度も)考えたことであったり、どこかで誰かが言っていたことであったり、自分の中で意味づけをしてしまったものだったりします。

だから極端に言ってしまうと、話し始めというのは雪かきを始めたばかりのような状態。本当に言いたいことが出てきやすくなるための、通り道を作り始める段階です。

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話し手が、自分が本当に言いたいことに到達するためには、その上に覆いかぶさっているもの、からまりあっているもの、通り道を塞いでいるものなどを、順番に取り除いていく必要があります。上にあるものをまず出さないと、本当に言いたいことは出てこられないからです。

よく目撃するのは(自分の体験も含めて)、そんなにまだあまり取り除かれていない段階で、表に出てきた「言葉になったもの」に対して、聞き手から質問が投げかけられるという状況です。

この質問が、取り除くことを助ける方向にマッチしていれば問題ないのですが、ズレていた場合、話し手が本来雪かきをしたかったはずの場所ではなく、なぜか別のところの雪かきをやらなくてはいけなくなる可能性が出てきます。

つまり、話し手は自力でせっせ、せっせと作っていた通り道をいったん置いといて、「聞き手からの質問に答えるための道」を新たに雪かきする(言葉をさがす)ことになりかねない

話し手さえも、自分の中の絡まり具合がどんな感じかわかっていない状況で、聞き手はもちろんそれが見えるわけではない。こういうとき聞き手は、自分で思うよりも長く、待ってみる必要があるのではと思います。


あともう一つよく目撃する状況は、「なぜAだと感じたんでしょうかね?」という「WHY」の質問。一見、より深くそのことについて考えて、その奥にあるさらに本質的な答えにいきやすいように思えます。

ところが、以前何かの記事にありましたが、人は「なぜ?」を問われると、答えを見つけて落ち着くために、そのときに浮かんできたものを理由にしてしまう傾向があるそうです。これは結局、取り除かれていない上の方のことを言っているにすぎないことが多い。
そして、もっともらしい答えを言っているうちに自分が本当にそう思っている気になってしまう。これでは本当に言いたいことにはたどり着けません。

 

なので、聞き手は質問をするときに「その質問はどこから来ているのか?どこにフォーカスを当てているのか?」を意識する必要があります。なぜなら、相手の本当の言いたいことを聴こうと思っていたら、追い越さない聴き方をして、安易な質問は出ないはずだからです。

かといって、ただ黙って聴いていればいいってわけではなく、ちゃんと一緒について行く必要があります。じゃあ具体的にどうやって聴くの?というのはまた改めて。
(こうして改めての雪が積もっていく…)

 

<追記>
ちなみに上の図の状況、自分で何かを書くときもまったく同じで、なんか「これを書きたい!」と思っても、自分でも結局何が言いたいのか見えないから、evernoteとかメモ帳とかwordとかに、まずは出てくるままダーッと打ってみて、そのダーッと打っているものを整えてUPできるように調整しているうちに、「あ、私はこれが言いたかったんだ!」と気づくときもあるし、「うーん、結局何が言いたかったか自分でもよくわかんないけど、とりあえずここまで通り道を作っておこう」というときもあります。