日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

その「もやもや」はどこから来ているのか?

哲学対話に参加するとよく聞こえてくる言葉のNo.1は「もやもや」という言葉です。哲学対話では「もやもや」で表現されるように、「わからない」状況・状態に陥ることがよくあります。でも、個人的にはその「わからない」には、いくつかの種類があるように思います。そこで今日は、その「わからない」について考えてみます。

ちなみに、哲学対話の体験をベースに書きますが、ここに書くことは別に哲学対話に限らず、おそらくいろんな対話の場でよく起こることだと思いつつ書いてます。

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1)健全な「わからない」

普段当たり前だと思っていたことが、「本当にそうなのかな?」とわからなくなったり、誰かの意見を聞いて、「自分とは違うな、どうしてだろう?」とわからなくなったり、「○○と▲▲はどうちがうんだろう?」とわからなくなったり。

それは健全な「わからない」で、ある意味哲学対話の醍醐味であるとも言えます。自分の中に新たな問いが生まれたり、問いが深まったりするからです。

こういった種類の「わからない」からくるもやもやは、それこそ哲学対話でよく言われる「おみやげ」なので、大切に持ち帰って、引き続き自分で考えてみたり、身近な人と話してみたりするといいものです。

 

でも、違う意味での「わからない」もよくあります。どっちかっていうと、個人的にはこっちのことに対して「もやもや」という言葉が使われていることが多いような気がします。

2)「何」を話しているかわからない

・話の内容が専門的すぎてわからない。これは当然知ってるでしょという前提で話されるのでわからない。
・話の内容があいまいすぎたり、主語が省略されて誰の何のことなのかわからなかったり、つながりが不明瞭だったりして、その人が何を話しているかわからない。

→哲学対話では専門用語を使わないで、と伝える場が多いので、前者は少ないかもしれません。後者はわからなかったのでもう少し教えてくださいと確認していく必要があります。

3)「なぜ」それを話しているかわからない

・これまでの話の中の何に関連してその人が今それを話しているのか?がわからない。
なぜそんなにも、その人がそのことを(ときに繰り返し)主張するのか?がわからない。

→その人が発言している背景がわからないというもの。これもどうつながっているかを確認したり、その人の主張を受け止めたりする必要がありそうです。

4)「何について」考えればいいかわからない

哲学対話では、主に下記の3つの進め方がありますが、

・テーマ(問い)が何も決まっておらず、集まった人がその日話し合う問いを出し合って決めてから、対話をする場合
・主催者が決めたテーマ(問い)について話す場合(例:働くとはどういうことか?)
・大きなテーマだけ(例:「仕事」)を主催者が決めておき、対話の流れの中でテーマに関連した問いが参加者から出され変遷していく場合

どのような進め方がされたとしても、多様な人が集まる場では、多様な「視点」や「問い」、「テーマに関連した体験」などが出されます。話が進んでいくと、それらが交錯していき、発言する人によって視点がめまぐるしく動きます。すると、今のこの時間「自分は果たして何について考えればいいのか?」がわからない、ということが起こることがあります。

→これは私にとっても探求テーマだったので、また別の投稿に書きます。

5)これが哲学対話といえるのかわからない

場によっては、みんながただ単に好き勝手に話して、それで2時間が経過し、「今日もたくさん話せたね」「今日もたくさん聞いてもらえてよかった」と帰っていく。果たしてそれが哲学対話なのか?と疑問がわく。

→この5)に関しては、人から聞いた話で、自分が直接体感したものではないので、この投稿でのコメントは差し控えます。

 

で。
ここで重要なのが、上記の2)~4)の「わからない」は、自分の前提、想定が強固な程、起こりやすいのではないか?ということ。言い換えると「納得がいかない」「腑に落ちない」「違和感がある」っていう感じの「わからない」なのではないか、ということです。

これは「普通~するでしょ」「○○するべき」みたいなものががっつり育っている人ほど、その想定にそわない場に対して、違和感を感じたり、イライラしたり、コントロールしようとしたり、他人にいちゃもんをつけたりする。

かくいう私も、上記2)~4)の「わからない」で、結構長らくもやもやしていました。ただ、最初は「もやもや」自体が「もやもや」していて(言葉遊びみたいになってますが笑)よくわからなかったので、いろんな人の主催する哲学カフェに行き、哲学カフェのファシリテーター養成講座に参加して、哲学対話関連の書籍をあれこれ読んで、そして自分でも開催してみたなかで、ああ「わからない」には種類があって、その「わからない」がどこから来ているかが大事なんだなと思うようになりました。

特に2)~4)の「わからない」は、自分の前提や想定に気づき、ボーム(※)がいうようにそれを「保留」するための貴重な機会になります。なので、「今のこのもやもやはどこから来ているのか?」と自分の声を聴き、もやもやを探っていくことが、対話を行っていく上で、とても重要なことになるのではないでしょうか。そうでないとおそらく、もやもやの繭の中に入ったままになってしまい、人の話をしっかり聴き届けることができないだろうなと。


ボーム(※)、とさらっと書きましたが、補足説明&引用をしておきます(以前、自社のメルマガでも書いたものです)。

ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ

 

 
『ダイアローグ』の著者、デヴィット・ボームは、「なぜ対話が必要なのか?」という問いに対して、「誰もが異なった想定や意見を持っているからだ」と答えます。

ここでいう想定や意見とは、表面的なものではなく、その人が本当に重要と考えていることです。信念と言い換えられるかもしれません。

人は自分の想定を正当化せずにいられない場合が多く、感情的に相手を攻撃することで、それを守ろうとしがちである。

自分の意見に固執していては、対話などできまい。その上、意見を守っていることに自分で気づいていない場合が多い。意図的な行動でない場合がほとんどなのである。

(対話においては)想定を持ち出さず、また押さえもせずに、保留状態にすることが求められる。そうした想定を信じるのも信じないのも禁止だし、良いか悪いかの判断をしてもいけない。

求められるのは、対話しているときの思考と、体が表す喜怒哀楽、そして情動との関連性に気づくことである。

敵意であれ、他のどんな感情であれ、自分の反応に気づくことが必要だ。

 オンゴーイングで対話をしながらこれらに気づくことは、かなりレベルの高いことだと思いますが、哲学対話に参加して「もやもや」したあとに、じっくり自分の内的な反応を振り返ることで、気づきやすくなるのでは、と思っています。



さてさて。
そんな「もやもや」「わからない」を探りながら最近読んだこちらの本が、絶妙なタイミングでいろんなヒントや、これからの場づくりの方向性を与えてくれました。

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

ソクラティク・ダイアローグ (シリーズ臨床哲学4)

  • 作者:堀江 剛
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


ここまで思ったより長くなってしまったので、続きは投稿を分けて書きます。