日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

「共同の物語」をどのようにして生み出すか?

「ナラティブ」に関する本は何冊も読んだことはあるし、その重要性も理解しているつもりだし、「ナラティブ」という言葉自体も深く考えずに口にしているけれど、でも実のところ、その意味や背景などを深く理解しているかというと、かなりあやしいと思っていた。

『ナラティブ・セラピー ――社会構成主義の実践』

『物語としてのケア――ナラティブ・アプローチの世界へ』

『ナラティブ・アプローチ』

などは、過去に線を引きながら読んでいたはずだけれど、いざ説明してみろと言われると大した言葉が出てこない。

 

そこで、上記の本の役者・著者・編者である野口裕二氏の13本の論考が納められている最新刊を手に取った。

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帯の言葉が刺さる、刺さる。「ひとりでも頑張れる能力」ばかり磨いてきた身としては。



ナラティヴと共同性 ―自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ―
 

 

本書の「はじめに」に書かれているように

ナラティブという言葉が多くの人に知られるようになって20年が過ぎた。この間に、ナラティブ・アプローチはどんな課題に取り組み、どんな成果を生み出してきたのか。何をしてきて、何をしてこなかったのか。そして、これから何ができるのか。これらが本書を貫く問いである。

ナラティブ・アプローチのこれまでやこれからを概観しやすいだろうと思ったからだ。

しかも著者が、「ひときわ衝撃を受けた」というオープンダイアローグについては、多くのページが割かれている。著者は「オープンダイアローグの登場によって、ナラティブ・アプローチがもっていた限界が明らかになった」とも述べている。

 

そこで、次のような問いを持ちながら本書を読み進めた。

 

・ナラティブ・アプローチ、社会構成主義当事者研究、オープンダイアローグとは何か?

・著者が、オープンダイアローグから受けた衝撃とは何か?オープンダイアローグが拓く可能性とはどんなものか?

・この本から得たことで今後自分が活かしていきたいことは何か?

 

ところで、ちょっと言い訳。

本を読む前に自分なりに問いをたて、その問いに対する自分なりの考えをアウトプットした方がよいのだろうとは思っていますが、私が好きなのは、一つひとつ「なるほど」と思うことを抜粋し、それらの抜粋を何度も読むことで、自分のなかにそのテーマに関する「理解の土壌」を育んでいくこと。自分なりに「こういうことなのか」というアウトプットにいたる(実がなる)のには時間がかかります。なのでこの投稿でなんらかの論考を展開するというわけではありません。ほとんど抜粋の引用となります。

 

●ナラティブ・アプローチ、社会構成主義について

言葉には言葉だけがもつ特権的な力がある。それは、現実を定義する力である。
 
もうひとつ忘れてはならないのは、数多くの出来事をまとめる力である。
 
言葉の癒しの力とは癒しの物語を想起させる力と言い換えることができる。
 
苦しみの状態とは苦しみの物語に囚われている状態ではない。物語が物語として成立しない状態、物語の不在こそがひとをくるしめている。しかし、そこに、なんらかの言葉が届いて、かすかな筋の展開が始まるとき、それをわれわれは癒しの言葉と呼ぶ。
 
(ナラティブ・アプローチは)言葉や物語が心的状態を変容させるのではなく、言葉や物語こそが心的状態そのものであり、言葉や物語によって構成されているそうした現実にどのようにしたら揺さぶりをかけて、新たな物語の展開を生み出せるのかについての実践を重ねてきた。
 
さまざまな物語に共通するドミナント・ストーリーを発見することが、「社会的現実」の構成のきっかけになる。単なる話の共通点ではなく、それぞれの話の暗黙の前提となっているもの、それこそがドミナント・ストーリーである。
 
アンダーソンらは、「問題は言語の世界のなかに存在する」と考える。「問題」をめぐる会話が「問題」をよりリアルなものにしていく。「問題」をめぐる会話の占める割合が減っていけば、その分「問題」は後景へ退いていく。つまり、「解決はしないが解消する」。会話こそが「問題」を「問題」たらしめると同時に、「問題」を「問題」でなくする力をもっている。
 
ナラティブは「偶然性」、「個別性」、「意外性」を特徴とするのに対し、セオリーは「必然性」、「一般性」、「法則性」を特徴とする。
 
われわれが生きる現実は、ナラティブとセオリーという二つの言語形式によって成り立っていることに気づく。
 
唯一の正解はないが、だからといって、何でもありなのではなく、現実は限られた複数性でできあがっている。だとすれば、いまよりもすこしでもましな現実を共同で構成する方向に賭けるというのが社会構成主義の基本的なスタンスである。
 
ナラティブは、複数の出来事を時間軸上に配列することで成り立つひとつの言語形式である。
 
ただし、ナラティブから一般性を感じ取ることは受け取る側の自由である。
 
聖書に書いてあることはほとんどすべてナラティブなのだが、人はそこから重要なセオリーを読み取る。
 
ナラティブは現実に輪郭を与えて安定化させると同時に、その現実を動かしがたいものにする。
 
(ナラティブ・セラピーは)従来の「病理と治療」という図式から脱して、「病を存続させるナラティブの無効化と、病に抵抗するナラティブの創造」という新たな方法を提示した。
 
当事者のナラティブを抑圧する主たる要因となるのは、専門家のセオリーであるということである。
 
もともと、近代以降に化学が発達する以前は、宗教をはじめとして、社会はさまざまなナラティブによって構成されていた。それが、科学の発展に伴うセオリーの爆発的増大によって、セオリーが大きな力をもつ時代へと変わった。
 
なぜ、われわれはこのようなモンスターの囁きに支配されてしまうのか。その背景には、われわれが生きる社会の暗黙の前提として流通するドミナントストーリーの存在がある。
 
世間に流通するドミナントストーリーに対抗するオルタナティブストーリーを育てるにはグループの支えが不可欠である。

 
●オープンダイアローグ、当事者研究について

(オープンダイアローグの)治療の目標は、「奇妙な言動や幻聴や幻覚として表現されている彼らの経験を言葉にしていくこと」に置かれる。言葉にならない経験に言葉を与えていくこと、その言葉を生み出すのが、「開かれた対話」にほかならない。
 
「病気は関係の中に存在します。症状が出た人は、悪い状況を可視化している。患者は、「症状を身にまとい」、重荷を背負っているのです。
 
セイックラらは「なぜ、ネットワークミーティングにおける対話が治療的な経験となるのか」という問いを立て、「愛の感情が、専門職を含むネットワークメンバーの間で交わされ共有されるときに変化が起こる」、「愛の感情が生まれることは、ひとびとの「感情の相互調整」がうまくいっていることの指標となる」と述べている。
 
対話は新しいナラティブを生み出すことによって新しい生き方を可能にする。同時に、対話はネットワークを再建することによって新しい生き方を可能にする。対話のもつこの二つの豊かな可能性をわれわれは今後も大切にしていく必要がある。
 
オープンダイアローグは希薄化というよりも関係のあり方を変えることに重点を置く。「独話的な関係(モノローグ)」から「対話的な関係(ダイアローグ)」への転換である。
 
オープンダイアローグはソーシャルネットワークを対話が生まれる場に変える点に大きな特徴をもつ。単にネットワークを再生するのではなく、単に対話を生み出すのでもない。ソーシャルネットワークを対話的関係にしていくことに独自の意義がある。
 
三つの方法を比べるとき見えてくるのは、「問題」に対するとらえ方の違いである。システムアプローチは、「問題」の発生する場所を個人から家族システムへと移動させた。ナラティブ・アプローチは、「問題」の発生する場所を、家族システムから家族が織りなす言語システムへと移動させた。これに対して、オープンダイアローグは「問題」の発生場所を特定することをやめて、「問題」をめぐって対話をおこなうネットワークを作り上げた。「問題」のありかを特定して対処するのではなく、「問題」をめぐって語りあう関係、ネットワークを作り上げることに重点を移したのである。
 
◎従来の臨床モデル:
ネガティブな感情 ⇒ 治療・介入 ⇒ ネガティブな感情の消失 ⇒ 回復
◎オープンダイアローグ
ネガティブな感情 ⇒ 治療・介入・ポジティブな感情の共有 ⇒ 回復
  
「見つめなおす」、「反省する」が個人に閉じた「私的」行為であるのに対して、「研究」はその成果が他者と共有されることを目指しており、その意味で「公共的」である。
 
当事者研究では、多数派の世界ではないことになっている現象に対して、新しい言葉や概念を作ることをとおして、仲間と世界を共有する」。「そして、そういった世界の共有だけで解決することは多いのだということに気づかされていく」(綾谷・熊谷、2010)
 
当事者研究における日常生活は、正解がすでにあって、間違えたり失敗すると裁かれる「試験の場」ではなく、仮説に従って動いてみて結果を解釈する「実験の場」になる」(綾谷・熊谷、2010)
 
「研究」と名づけることで、それは、「私的な語り」から「公共的な語り」へと変わる。
 
(オープンダイアローグは)何か結論を出すことが目的なのではなく、対話を続けること自体が目的とされる。
 
つまり、「問題」を特定しそこに介入することが目的なのではなく、対話的関係を作りそれを発展させることが目的とされる。結論を急がず、「不確実性に耐える」ことが求められるのである。その際、誰の発言に関してもかならずなんらかの応答をすることが重要となる。応答されない発言は「モノローグ」となり「ダイアローグ」とならないからである。
 
オープンダイアローグは徹頭徹尾、対話だけをひたすら追い求める。そして、その結果的な副産物としてなんらかの変化が生まれる。成果を求めて対話をするのではなく、対話を求めた結果その副産物として成果が生まれるのである(斎藤、2015)。
 
オープンダイアローグは、社会構成主義とナラティブ・アプローチに大きく影響を受けながらも、それとは異なる世界を切り拓いた。
 
この実践において目指されているのは、個人のなんらかの能力の獲得ではない。そうではなく、ひとびとの多様な声が尊重され響きあう関係性である。しかも、それは、セラピーのための一時的な関係性ではなく、患者を中心に家族や関係者によって構成される生活の場に根差した持続的な関係性、すなわち、共同性である。
 
当事者研究」もまた、こうした共同性を重視する実践としてとらえることができる。
 
これらの二つの実践に共通するのは、いうまでもなく、共同性の達成である。個人に内在するなんらかの能力ではなく、個人が共同性という関係性をもっていること、そうした共同性が個人の人生をより豊かにする点である。
 

 

 ●著者の主張:ナラティブ・アプローチのこれからの役割

 (1)オープンダイアローグも当事者研究も、物語それ自体の変化ではなく、物語をめぐるひとびとの関係性の変化が重視されている。オープンダイアローグでは、参加者それぞれがどのような物語をもっているのかをお互いに理解しあう関係が大切にされ、当事者研究では、どんな特徴をもった物語なのかを皆で研究し対応策を考える関係性が大切にされている。そして、こうした作業を通じて、新たな共同性が生まれている。物語が手段となって新たな共同性という目的が達成されているのである。ナラティブ・アプローチは、共同性が新たな物語を生み出すことだけでなく、物語が新たな共同性を生み出す貴重な手段となることに注意を払う必要がある。
 
(2)われわれが必要としているのは、いかにして支配や抑圧から解放されたかという「解放の物語」ではなく、いかにして孤立から逃れて共同性を達成したかという「共同の物語」である。ナラティブ・アプローチは、これまで多くの知見を蓄えてきた「解放の物語」だけでなく、「共同の物語」をどのようにして生み出すかという新たな課題に挑戦する必要がある。
 
(3)(オープンダイアローグも当事者研究も)問題にひとりで立ち向かって孤立するのではなく、皆で共同して立ち向かっていく。このとき、問題自体は一向に解決しなくても、問題がもたらす社会的孤立という苦難は解消されている。苦難の半分は解消しているのである。この意味で、長期的支援においては「共同性の獲得」が重要な目標となる。ナラティブ・アプローチはこうした長期的支援において物語が果たす役割についてさらに検討する必要がある。
 

 

抜粋したのは、あくまでも「今の私」が必要とした「部分・断片」であり、アプローチや概念のすべてを説明しているわけではないことは言うまでもないけれど、「共同性」というキーワードが、ナラティブ・アプローチの新たな可能性を示唆することが、繰り返し強調されていた。

私個人としては、

「物語をめぐるひとびとの関係性の変化」

「「共同の物語」をどのようにして生み出すか」

「問題にひとりで立ち向かって孤立するのではなく、皆で共同して立ち向かっていくこと」

を意識しながら、これからを過ごしたいと思う。

明日は当事者研究の勉強会。

来週はオープンダイアローグの勉強会。

このインプットを持って、向かいたいと思う。