本を処分できない理由 その3(完結編)
前回のブログから一か月近く経ってしまいましたが、続きをば。
前回のブログ↓
前回の最後にちろっと書きましたが、6月の下旬にリフレクティング体験会というのに参加して、その時に、クライアント役を体験するために、最近困っていることとして本の片付けが進まなくて苦しいということを話したんです。
(リフレクティングとは何かとか、細かいプロセスは省きますが、参考はこちら↓)
で、その際に、
「どうしてそんなに本を処分しなくちゃいけないのか?苦しいというのは何の限界なのか?読む時間?収納する空間?」
「処分するのが苦しいんだったら、そのまま本棚に戻してもいいんじゃないか」
「本を整理するのは人生を整理すること。今人生観、仕事観などに向き合おうとしているときなんだと思う」
「そのうち捨てられるときがくるんじゃないか。割り切れるときに割り切ればいい」
というようなコメントをいただいてハッと気づいたのです。
「目的が”本の片付け”になっていた?片づけはあくまでも手段で、本来の目的はなんだ?」
「自分は何を手に入れたくて片づけをしているんだろう?」
本を本棚から出して、カテゴリーごとに分けて、残すものと処分するものを仕分けるという段階でストップしている間、
「どうして私は本を処分できないのか?」
ということばかり考えてぐるぐるしていたのですが、
「これからどうしたいのか?そのために何をするか?」
が大事なわけで。
で、ふと思い出しました。
こんまり式片づけに取りかかる前に「理想の家のイメージ」というのを考えたことを。
それさえも忘れていた(笑)
私は家にそんなに多くのことを望んでいないので、いたってシンプル。
・片づいた家とは?どうしてそう思うの?
どこに何があるか探さなくても把握している状態
床に直置きのものがない状態
無駄なく生活できるから
・理想のインテリアは?どうして?
シンプルで必要なものが、必要な場所にある
効率がよいことが気持ちいいから
・その家でどんなふうに過ごしたい?どうして?
リズムよく、効率よく、クリエイティブに、快適に過ごしたい
生産性が高く、気分がよいから
もともと、本棚に二重に入っている本を半分処分すれば、本のタイトルが全部目に入り、いつでも手に取れる「本が活きた状態」になると思っていたのが片付けのスタート。
だったら「目当ての本がいつでも手にとれる状態であれば、無理に捨てなくてもいいんじゃないか?」と考えが変わったのです。
とはいえ、本棚に限らず、大きな家具はこれ以上増やしたくない。
だけど本を処分しない限り、前と同じく二重にしまわざるをえない。
そこで、間をとって、小さな本棚を増やすことにしました。
しかも、本が減ったらすぐに処分できるか、もしくは他の用途に使える棚であれば問題ないだろうということで、いろいろな用途に使えるフリーラックを2つ購入。
ということで、本を“ときめき”で仕分けることは手放して、カテゴリごとに本棚にしまっていくことにしました。
自室と、リビングに二か所の本棚にしまい終わるのにかかった時間は90分くらい。
それにしてもまあ、気持ちのよいこと!
あらためてわかったのは、おととしの年末の引っ越しの後、応急処置的に本棚に本をしまっていたので、本のカテゴリが結構バラバラになっていて、しかも入りきらないので、本が二重になって、どこに何の本があるかすぐにわからない、という状態がストレスの原因だったことです。
今回、本の数はそんなに変化していなけれど、カテゴリごとにしまってあるだけで、あの本はここらへんとすぐわかるので、それだけでストレスは解消されたのです。結局ほとんど処分をしてないんだけど、理想の状態に近づいたのでした。
考えが変わったきっかけのもう一つは、この一か月近く初期仏教の勉強をして「無常、苦、無我」の考えに触れ、自分がうまくいかなかったこと、こじらせていたことが、そういうことだったのかとほぐれるように理解できてきたから。
いろんな本を読んだのだけれど、ちょっと紹介すると、
プラユキ・ナラテボーさんの本でなるほどなあと思ったのが、下記の部分です。
自由に生きる: よき縁となし、よき縁となる。抜苦与楽の実践哲学
- 作者: プラユキ・ナラテボー
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2016/03/31
- メディア: Kindle版
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たとえば、「私はダメ人間だ」という言葉、これは過去の失敗体験や望ましくないと思われる自身の行動にフォーカスを当てて抽出し、それを便宜的にひとまとめにして表現したもの(=概念化された自己認識)にすぎません。ところがひとたびそれが「私の特性」と認識され、自身の行動を支配する内的な原因と解釈されてしまったとき、実際にはいくらでも今ここでとることのできる行動をとれなくさせてしまうのです。
だから過去に遡らなくても問題は解決できるし、未来の問題だと見えていたものも、実は今ここでの思考作業に問題があるのだということがわかり、したがって、未来が来るのを待たなくても今ここで解決できるのだということにも気づく。
結局、私が放置期間にやっていたことは、なんで片付けられないんだろう?片づけられない自分はダメだ、という妄想の海に浸かっていただけだったような気がします。
本を読んだのに覚えていないとか、本を買っても全然読んでいないという罪悪感も、
「これからどうしたいのか?そのために何をするか?」と考えればいいだけ。
過去のことをあれこれ思い出しては自己否定する必要はどこにもない。
本を読み終わったら、
大事なことをいつでも参照できる状態にしてあるといい
そのためにevernoteに、自分にとって重要な箇所を入力する
といういたってシンプルなルールにして、
それを今取り組んでいるTrelloのカードにして、と
自分なりに納得のいくパターンができてきました。
本を残す、処分する、ということをなんだかすごく大仰にとらえていたけれど、実際は「あ、もうこの本はいいや」と気づいたときに処分すればいいことで。
「どうしたいのかを考えて、今できることをとっととやろう」
という自分の基準が刷新された、というのが今回の本の片付けにまつわる結末でした。
とはいえ、こんまり式の片付けは続けてやっていきます。
次は書類関連。これも今、リビングにどさっと山積みにしてあるので、がしゃがしゃ取りかかっていきたいと思います。