日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

10年を経てまた巡り合う:リフレティングという外的会話と内的会話の方法

なんか、前置き長いなあっていつも自分でも思うのですが、コンテクストの自己確認っていう意味で入れたいのですよ。なので、いつも通り長い前置きから入りますね(笑)

かれこれ10年前、2009年の2月、東北大学の若島孔文先生の「臨床におけるダブル・バインド」という講座を受けに行きました。
今はライターとして活躍しているヒデさんに教えてもらって。

その講座が、私の中ではいまだに思い出せるほど強烈で、産業カウンセラー(ロジャーズ)の「傾聴」や「受容・共感・自己一致」を熱心に学んだばかりの私にはびっくりすることも多かったのですが、一気に若島先生のファンになり、そのときに「ナラティブ」とか「リフレクティング」を知り興味を持ちました。

 

☆当時のブログ、探したらありました~。懐かしい&恥ずかしい過去だけど(笑)

■ダブルバインドの続き | ●大前みどりの「フローに生きる技術」

 

その後、ヒデさん主催でリフレクティングセッションを体験し、これはかなりすごい!と思ったまま10年の時間が過ぎていきました。。。

 

そして。

この数年、日本でオープンダイアローグがにわかに注目を浴びてきて、そのオープンダイアローグの中にリフレクティングのプロセスが組み込まれているというか、リフレクティングがオープンダイアローグに進化したというか、まあそんな(個人的には)再会があって、あらためて私にもリフレクティング熱が再来しています。
そんなこんなで、先月は日本リフレクティング協会の体感ワークショップに参加。

そこでやっぱり、これはすごく可能性のあるアプローチだなあという認識をあらたにしたのです。

ちなみに、“リフレクティング”というのは何かというと、いわゆる“リフレクション”とは違います。

>「リフレクティング・チーム」とは,セラピストと観察者,そしてクライエントが互いに意見を反響させ,異なった循環を生み出すことで解決を図る技法である。しかし,そこから発生した「リフレクト」という概念は単なる技法論にとどまらず,会話や解釈,言語そのものにまで連関しているもので,ナラティブセラピーをはじめとするポストモダン・セラピーに深い影響を与えている。

リフレクティング・プロセス(新装版)

 

なんか、わかるような、わからないような、ですよね(笑)

なので。
先日の体験会に参加してみて、ためになったことや新たに発見したことなどをアンケートに書いて送ったのですが、私のフレッシュな(?)感動が現れていると思うので、こちらを見ていただいた方が伝わりやすいかもしれません。

 

〇クライアントをやってみて
私の場合、気持ちよりも思考が優先されるタイプなので、自分が本当に感じていることと考える中で出てきたことがからまって、本質的な問題とその枝葉の問題の区別が気づきにくくなる傾向があるのですが、カウンセリングとリフレクティングの時間が交互にあることで、そこがうまくほぐしてもらえたように思います。

自分が話しているときは、「今自分の中にあるものをなんとかうまく言葉にしたい」「カウンセラーに自分の考えや思いをちゃんとわかってほしい」というところに焦点があたっているため、「言葉を出す」ことに一生懸命になってしまい、自分の内面を見つめそこで起こってくる「感じ」や「気持ち」の変化をゆっくり見つめることがあまりできていない状態だったと思います。

ですが、リフレクティングチームの方々のコメントを聴く時間は、「そんな風に伝わっているのか」と自分が発した意図と異なって伝わっていることがわかったり、逆に自分が思っていること(だけど言葉にできていないこと)を深く汲み取ってもらえてうれしかったり、「そういう見方や考え方はしていなかった」「たしかにそう言われてみればそうかも」などという新たな発見ができたりと、様々な角度からのフィードバックによって、あらためて自分と対話ができる=自分の本当の声を聴ける時間となりました。

 

〇リフレクティングチームのメンバーをやってみて
普通に対面で話したり、自分がカウンセラーのときは、「それはどういうことだろう?」「本当に困っているのはどこなんだろう?」と思った場合、その場で相手に質問ができてしまうのですが、リフレクティングのメンバーのときは、そのまま黙って聴いていくことで、より相手への興味が深くなり、結果としてものすごく深くその人の話を聴くことになるのだなというのが、新たな発見でした。

そして、その人の話を理解しようとただ聴いているだけであっても、自分自身への問いかけになっていることにも気づきました。「自分だったらこんな風に考えるけど、どうしてこの人はそう考えるのだろう?」そんな違いが、自分の「無意識」や「当たり前」を浮き彫りにするのだなと思いました。これが最初から、「相手にアドバイスをしよう」と思って聞いてしまうと、そんな風に内省を促進する問いかけにはならないのだろうと思います。

 

 というようなことをアンケートに書いてお送りしたのですが、まさにここに書いたことが、私自身がリフレクティングから感じた価値です。


で。

その後にこの本を読むと、そういう私が感じた実感や価値みたいなものを、専門家の立場からもっと的確に解説してくれていました。

 

リフレクティング: 会話についての会話という方法

リフレクティング: 会話についての会話という方法

 

 

いちばん溜飲が下がるような思いをした部分を、長いですが引用しますね。

 

リフレクティングという言葉は、英語のそれではなく、ノルウェー語の"refleksjon"と同じ意味を持つフランス語の"reflexion"の意味に近いとアンデルセンは述べている。すなわち、リフレクティングとは、何事かをじっくりと聞き、考えをめぐらし、そして、考えたことを相手に返すことを意味する。
 
リフレクティングにおいては、「はなす」ことを外的会話(他者との会話)、「きく」ことを内的会話(自分との会話、あるいは、自分の内なる他者との会話)と呼びます。この二つの会話の区別はとても大切なことなので、ぜひ心に留めておいてください。リフレクティングは、この二種の会話を丁寧に重ね合わせ、うつし込み合わせながら展開していく(すなわち、会話について会話する)ための工夫に満ちた方法なのです。

 

口頭によるコミュニケーションは、原則として話し手と聞き手が同時にコミュニケーションに巻き込まれることになる。話すことと聞くことは同時進行し、話し手にとってほかならぬ存在である聞き手は、目前の身体性を伴うことば(声)に直面しつつそれに反応することに追われがちであるため、内的会話によある外的会話のうつし込み、外的会話による内的対話のうつし込みの範囲は、いずれも相対的に狭隘なものとなりやすい。
 
これに対して、文字によるコミュニケーションは、そうした状況からの解放を意味する。そこでは、必ずしも特定の誰かに向けてではなく、不特定多数の人びとや、まだ見ぬ未来の読者に向けて書くこともできるし、そうして書かれたものを、はるかな時間的・空間的隔たりを超えて、深夜、独りで自室で独り静かに読むことも可能である。書き手にとっては、「書く」こと自体が内的会話の高度な組織化を要する行為であるため、時間をかけて自らの内なる他者たちとの内的会話に沈潜しつつ、じっくりと文章を編んでいかねばならないし、読み手にとっては、その場に書き手が不在であること、すなわち、その文章の書かれた文脈から解放されていることにより、読み手の文脈に応じた自由な読み方が可能となり、書かれた文章から内的会話にうつし込まれることばは、はるかに多様なものとなりえる。

 

リフレクティング・トーク特有の内的会話と外的会話のうつし込みは、二つの会話の距離に関して、通常の口頭によるコミュニケーションと文字によるコミュニケーションとの間に位置づけられる新たなコミュニケーションのあり方、いわば「声」と「文字」の間に固有の時間の流れを生みだす第三のコミュニケーションのあり方と見なすことができる。文字によるコミュニケーションが、文字化されたテクストにより、強力な外在化を可能とする一方で、文脈からの乖離(先に述べたように、それは文脈からの解放でもあるのだが)を生じがちであるのに対し、リフレクティング・トークでは、口頭によるコミュニケーションの人為的分断を伴いつつも、そうした場を共有し、共在していることにより、適度な外在化と適度な文脈の保持を可能とする。そこでは、話し手の「声」に接しつつも隔てられているという絶妙な「間」を保つことによって、聞き手がじっくりと内的会話を進めることが可能となるのである。
 

これを書いている12時間後には、今度は2日間のリフレクティング・ワークショップに参加しています。

またもっと、じんわりしっぽり、その深い泉に身を預けてきたいと思います。

 次回に続く☆

 

PS:なんか10年前の写真をのせようと思って、PCのデータを探したのですが、事情があってのせられないものなども多く、独立に際してアントレのメンバーがカシータで壮行会をしてくれたときの号外新聞の写真を、あらためてうれしかったのでのせますね。

 

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