日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

日本最大!スパジャポ体験

私は1カ月半ごとに美容院に通っているのですが、いつもいく美容院のアシスタントの女の子が、最初の頃にたまたまスーパー銭湯の話をしたからか、毎回「最近、どこか(のスーパー銭湯)行きましたか?」と話題を向けてくれます。

ただ、私はそんなに銭湯や温泉のフリークではないので、「いや、いってないですねえ~」という返事に毎回なってしまうのですが、共通の話題が他にないからか(汗)、「どこどこがいいらしいですよ」、「どこどこはすごくきれいでしたよ」といろいろ教えてくれます。

ということで、たまには新しいネタを持って美容院に行こう!と思い立ち、先日行ってきました。日本最大!とWEBサイトにでかでかと書いてあるスパジアム・ジャポンへ。東京都東久留米市にある天然温泉です。

すでに行っている旦那さんと長男くんから、すごい広いよ~、すごいいいよ~とは聞いていて、家の近くの駅から往復シャトルバスに乗れるのでお酒も飲めるし♪と、激混みであろう土日はさけて平日の朝一のバスで向かいました。

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こんなド派手なバスに乗って25分程。
どーんとドームのような建物が出てきます。

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到着したときにはすでにずらーっと階段にオープンを待つ行列が。事前にネットでチケットを購入したものの、優先で入れるわけではないので、20分ほどチケット購入パネルの列に並んでやっと入場。

 

最初に浴場に向かい、身体や髪の毛を洗ってから順番にいろいろなお風呂を堪能。
屋外にある炭酸泉の壺湯が低温でずっと入っていられて特に気持ちよかったです。

そこからお風呂を出て髪の毛を乾かしたあとは、館内着で岩盤浴フロアへ。もう一つのお楽しみは岩盤浴ラウンジに3万冊あるという漫画。

フロアを上がると、いろんな趣向が凝らされたリラックススペースと、漫画の棚が。よさそうなところはすでに多くの人で埋まっています。
映え系の若い女の子たち、若いカップルがゴロゴロしていました。

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写真撮っていいかわからなかったので、こっそりとった一枚がこれ。

 

最初、岩盤浴で寝っ転がりながら『深夜食堂』の漫画を読んでいたのですが、汗がたっぷり出たあとは、リクライニングソファに移動。

ここで私は漫画を読みながら、はたと気づきました。

来る前は、まずお風呂に入って、岩盤浴しながら漫画を読んで、そんでお昼を食べながらビールを飲んで、がーっと昼寝して、そんでまた温泉に浸かって、という「ゆったり、のんびり、静かな時間」を過ごすことを期待していたのですが、、、

実際は(よくよく考えてみれば当たり前なのですが)、人が多いので、館内のどこに行ってもまあまあ賑やか。そして、平日とはいえ、時期的に大学生や高校三年生が多く、しかも年明け放送の「王様のブランチ」で関東のスーパー銭湯のBEST1に選ばれたっていうタイミングでもあったらしく、言葉を選ばずにいうと、どこに行ってもうるさい(笑)
おばさんが苦手な周波数で、若い女の子たちが、間断なくしゃべり続ける声が聞こえてくるという状況でした。

なので、当初のゆったりプランはあきらめ、フードコートでビールを一杯だけ飲んで、またお風呂に入ったあとは、シャトルバスで早々に帰ってきました。

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結論として、スパジャポは一人で行くところではなく、家族や友人とわいわい楽しみながらいく方が向いているなあと思いました。

 

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天気がよければテラスも気持ちよさそう。

もし一人でいくとしたら、お風呂とサウナに絞っていったほうがいいかも。


お風呂は相当いいです!
特に内風呂の高濃度炭酸泉とヘッドスパ、屋外の壺湯、シルク風呂などはかなり気持ちいいですし、個人的には熱湯風呂か!と思うような「熱々の湯」が好きでした。

ゆったりのんびり静かに…のお楽しみは、また温泉宿などで味わうとして、いつもの自宅のお風呂と比べてやっぱり広い場所での天然の温泉はよい気分転換になりました。

それにしても、スーパー銭湯に行くという何気ないことにさえ、あれこれ意味や内容を求めてしまう(期待してしまう)という自分の傾向に気づき、ちょっとやれやれと思いました。

欲張りなのか、貧乏性なのか、お金というよりも「時間」を使うことに対して、何かしらリターンを求めてしまうのかもしれません。。。

 

 

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●2/22(土)午前 「人を巻き込む力を高める!」ワークショップ
http://world-cafe.net/event/post-128.html

「やらないと絶対にわからないけど、やると学びが深く、やった後1ヶ月経ってもじわじわと気づきが来る」と評判です。ぜひ一度体験してみてください。


●2/22(土)午後 「こじらせ自己啓発への処方箋」ワークショップ
http://world-cafe.net/event/post-129.html

「とことん、自分じゃない誰かになりきってみる」という体験を通して、自分を見つめ直していきます。

 

子どもはいつから、ぴょんぴょん飛び跳ねなくなるのか?

昨日ある深夜番組で、済美高校出身の150kmを投げるお笑い芸人 ティモンディ高岸の密着の様子が放送されていました。
彼は自宅近くの公園で、よくトレーニングや壁に向かってのピッチングをしているそうですが、最近はテレビでの露出が増えているので、公園にいるとよく小さい子たちが集まってくるそうです。服装もオレンジ一色で目立つしね。

で、そのときの小さい子たちの様子を見ていると、ティモンディ高岸が話しかけると、手を叩きながらぴょんぴょんと飛び跳ねているのです

幼稚園とか保育園くらいの年齢の小さい子って、何かうれしいとか、楽しいと感じると、気持ちの高ぶりが自然と身体に出てしまうのか、よくぴょんぴょんと飛び跳ねますよね?!。

でも、ある段階でそういう子どもたちも、飛び跳ねるのをやめてしまいます。
それって、いつ頃で、何がきっかけかご存知ですか?

そんなにもったいぶる話ではないのですが笑、うちの子どもたちが小さいときに、おもしろい光景を目撃したので、今日はそのことを書いてみます。

 

子どもがいる親御さんにとって、小学校の運動会って結構大きなイベントじゃないでしょうか?

最近は学校によっていろいろ運営ルールが異なるようですが、うちの子どもたちが小学生の頃(10年程前)は、早朝から3つある小学校の入り口にパパたちが並び、7時の開門と同時に鬼の形相で猛ダッシュ!敷物を敷いて場所取りをするのが恒例行事でした(徹夜して並ぶような学校もあるようですが)。

一方でママたちは、せっせとお弁当づくり。運動会のお弁当はやっぱり張り切ってしまうものです!

なので、運動会が始まる頃には、一仕事を終えてすっかり疲れていたり・・・することもありましたが、そこはおもしろいもので、運動会の定番曲の1つ「クシコス・ポスト」がテテテ、テテテ、テテテテテ、テンとかかると、あっというまに気持ちが昂ってきます。

自分の子どもが出る学年はもちろん、カメラを持ってシャッターチャンスを狙ったり、かっけっこやリレーなどは声がはりさけんばかりの大声援をしたりといそがしいですが、他の学年の競技も、見ているだけで結構楽しめます。

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そして小学校の運動会、もう一つのひそかなお楽しみが、新一年生を見ること。新一年生はほんと初々しくて、子犬や子猫を見ているようで、自分の子でなくてもかわいい。
チェッコリの玉入れなんて、小さなおしりをふりふりして踊る姿はもちろん、がんばって玉を投げるんだけど全然入らないのもまた、かわいいものです。


ここでやっと、おもしろい光景の話に戻るのですが、みんなでわいわいお弁当を食べたあとの午後、1年生から6年生まで、全校生徒による大玉転がし競争が始まります。

当時は各クラス40人くらい、各学年5クラスあったので、4人×10列×6学年の大きなかたまりというか川が、校庭にずらーっと5つ並びます。
校舎側から見ると、左から右に順番に背が高くなっていくように児童が並びます。
そしてみんなが両手を上にあげ、その頭上を大きな玉を転がしていく。左右からは6年生が数人、サポートします。

競技が始まるのを見守っていると、ずらーっと並ぶ列の一番左側の小さいところだけが、なぜか上下に揺れ動いています。一年生だけが、その場でぴょんぴょん跳ねているのです。

おそらく、上級生のおにいさんおねえさんたちと一緒に、優勝をかけたたたかいをするんだ!と興奮しているのかもしれません。ほとんどの子がその場で休みなく飛び跳ねていました。

一方で、2年生から右側は誰一人として跳ねていませんでした。普通に競技が始まるのを、ただその場に並んで立って待っていました。


その光景を見て、愕然としました。
「小学校1年の9月から小学校2年の9月までの間に、これだけ多くの子どもたちが跳ねなくなるのか!」と。

小学校に入って、集団行動をするという教育を受けるとそうなっていくのかあと、目の前の光景を複雑な気持ちで眺めていました。

確かに街を歩いていて、その辺のビジネスパーソンがぴょんぴょん跳ねていたらこわいです。だけど、大人だってボーリングでストライクをとったりとか、好きな芸能人に握手してもらったとか(例えが貧弱ですみません(^^;)、なにかものすごくうれしいことがあったりしたら、ついつい手を叩きながら飛び跳ねてしまうことってありますよね?!そういうのが、その時期に失われてしまうのか、、、と。

以前プロセスワークの祖 アーノルド・ミンデル博士が来日したワークショップのときに言っていました。子どもが飛び跳ねるときのような、身体を突き動かしてしまうような「何か」が、とても大切なんだよ、と。


昨日の投稿の中で

「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」という質問に対して、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」と回答した日本の若者は49.4%、韓国では20.7%

という調査結果を紹介しましたが、そのことから連想して、この「飛び跳ねストップ」の光景を思い出しました。

飛び跳ねることがやむことを、成長というのか、慣らされたというのか。
なかなか深いなあと思っています。


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「自分の行動の原因を、自分の外に置いていないか?」と問うてみる

芸能人の不倫や薬物のニュースが連日ネットやテレビを賑わせています。このニュースの裏でまた何か不穏なことが起こっているんじゃないか?ちょっと疑いつつ、その中でふと目に留まったこちらの記事↓は、違う意味で興味を引かれました。

東出不倫への異常なバッシングは、日本の「ゆがんだ教育」が招いた | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン


このライターさんは、

我々(日本人)は世界の中でも有数の「個人の勝手な行動」に対して厳しい国民であって、この他人の振る舞いへの異常な執着心が、常軌を逸したバッシングのベースにあるのではないか

「個人の自分勝手な行動」への強烈な憎悪が、日本で最近話題になる「不寛容社会」の根っこにある

ということを主張しています。それを指摘するために、データの1つとして

www8.cao.go.jp

を参照しています。
(該当箇所しか調査結果を見れてないけど、このレポート自体かなりおもしろそう)

上記の記事によると、

日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンという7つの国で、それぞれ満13歳から満29歳まで1000人程度の男女を対象に実施されたこの調査では、日本の若者だけに見られるさまざまな精神的特徴や思想などが見事に浮かび上がっている。しかし、その中でも際立って「異様」な結果を示したのが、「社会規範」についての意識だ。

「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」という質問に対して、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」と回答した若者は、なんと49.4%。つまり、若者の半分は、他人に迷惑をかけなくても自分勝手な振る舞いは自重すべきだ、と感じているのだ。

(中略)

例えば、日本では何かにつけて「息苦しい国だ」というイメージが定着しているお隣の韓国では20.7%、マジメな国民性が日本とよく似ているなんて言われるドイツでは21%、アメリカ(15.8%)やフランス(15.2%)はもっと低い。

世界では、他人に迷惑をかけなければ何をしようと俺の勝手だろ、という若者がメジャーなのに対して、どういうわけか日本では、いかなる理由があっても自分勝手な振る舞いは許されない、と考えている若者が圧倒的に多いのである。

 

ということで、個人的にはこのアンケート結果の数値自体は「まあ、そんな感じだろうなあ」という気がします。


で、ここからが今日の本題なのですが、このアンケート結果でふと思い出したのが「貿易ゲーム」を使った研修での光景でした。

一昨年、ファシリテーター仲間の柴田朋子さんに声をかけてもらい、在日韓国人経営者団体で「貿易ゲーム」のファシリテーターをしたことがあります。

その時の様子は、下記の柴田さんのブログに詳しく(?)ありますが、

ameblo.jp

私は昨年も同じ団体で、2年連続、貿易ゲームのファシリテーションをさせてもらいました。

なんでこの経験を思い出したかというと、とにかく「圧倒された」わけです。
始まってすぐ会場全体の温度が上がるほどの熱量、行動に移す速さ、発言や交渉の回数など、いろんな面で。

私は無意識に、日本の企業で行う研修のような気持ちでその場に臨んでいたのですが、始まってすぐギアをあげなくては!と焦りを感じるほどでした。
まるでスポーツをしているように汗をかきながら、ものすごい集中力でその場に臨むことになりました(普段集中していないっていうわけじゃないんだけども(^^;)。

彼らと、普段接する日本の(主に)ビジネスパーソンとで、一番違っていたのは、表現のしかた

日本人の場合、ファシリテーターに何か質問や確認をする場合、「~していいですか?」許可を求めるような感じが多い。

だけど彼らは「~はおかしいと思う」「~なのはなぜですか?」と、自分の主張をしっかり伝えてきます。

おそらく、同じゲームをやっているので、感じること気づくことは同じようなことなのだと思うのです。何が不平等だとか、これってやってもいいんだろうか?とか。

でも、そう思った後が違う
彼らは思ったらまずやってみる。訊いてみる。
それから考える。
日本の(多くの)場では、まず考える。相談する。それから動く、もしくは動かない(動けない)ことが多いなあと。


柴田さんのブログにもこんな風に書かれています。

躊躇しない。
こんなこと聞いちゃダメかも、がない。
掟破りはやってから「バレたらやめる」的な強引さ(笑)

さぐって、譲って、相談ばかりして決めない
・・・っていうタイプより、はるかに成果が出て、改善もできて、成長が早く、結果がでる。

 

もちろん、たった数十人の参加者を見て何がわかるのだ!と思われる方もいるだろうし、そもそも個人差があるだろうけども、2回体験して2回ともとしてそうだったということ。


そんで内閣府の調査結果に戻るのだけれど、そのことが「社会規範」についての意識の結果に、おそらく関係しているのだろうなあと。

「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」という質問に対して、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」と回答した日本の若者は49.4%、韓国では20.7%

 
日本人が、「こんなことをしたら自分勝手と思われるから」と自分に制限をかけているとしたら、いきおい他人にも厳しくなる。狭量さにつながる。


結局何がいいたいかというと、自分が何によってドリブンされているか?に自覚的であることって大切ですよね、ということなのです。

「あの人って自分勝手だわ~」と思ったときこそチャンス。何によって自分がそう思っているんだろう?とか、「自分は誰かを断罪したり、排除しようとしたりしていないか?」とか、「本当に自分勝手な行動なのか?」と問い直してみることは、とても意味のあることのような気がします。

それはつまり、「自分の反応の原因を、自分の外に置いていないか?」と問うてみることになるからです。反応しているのはあくまで自分なのだから。


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【ここからお知らせ】

この投稿で書いた貿易ゲームを体験しつつ、自分が「ついつい」とってしまう行動に気づいて観察して、他人とフィードバックし合えるという、とってもちょうどよい機会があります。

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同日開催!

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はりきって行ってみた、初めての大相撲観戦

令和2年初場所の千秋楽(1月26日)、初めての大相撲観戦に行ってきました。

何で相撲を観に行こうと思ったか?というと、以前から長男が夕方の相撲中継をよく見ていて(ラグビースクラムを組むときの参考になるからとのこと)、何年かするうちに、相当相撲に詳しい人になっていました。

一方で、私自身はこれまで興味を持って相撲を見たことは一度もなく、たまにニュースなどで話題になるレベルでしか知らない状態でした。ただ、昨年から日本の歴史や文学を学び直すなかで、日本の芸能だけでなく、相撲にも興味が出てきたことと、あとは、子どもたちが大きくなって家族で出かけるのがますます少なくなってきたことで、みんなで相撲でも観に行こうか!ということになり、

12月にダメもとで初場所チケット抽選に申し込んだら、運よく千秋楽のマス席のチケットがあたったのです。

根っからの貧乏性というか、欲張りというかなので、せっかく数万円を払って行くからには、いろいろ知っていた方が、元がとれるだろう、あ、いや、楽しめるだろう!ということで、事前学習としてなるべく初場所大相撲中継を見るようにしました(これは時間を融通しやすいフリーランスの特権ですね)。

さらに、ガイドブックを買ってちょこちょこ知識もインプット。

相撲観戦入門2020 (B.B.MOOK1473)

相撲観戦入門2020 (B.B.MOOK1473)

 



ちなみに、相撲は奇数月に開催され、1月が初場所。1つの場所は15日間で、十両以上の力士は毎日相撲を取り、その白星の数で番付が変わってきます。

今期は現横綱白鵬鶴竜ともに、途中から休場してしまったため、横綱不在の場所となりましたが、そもそもたいして知らない初心者の私にはそこはあまり関係ありません(笑)

 

大相撲中継を毎日のように見ていると、日を重ねるごとに力士の顔と名前を憶えていき、不思議なものでそれぞれの力士にだんだん愛着や親しみのようなものがわいてきます。一人ひとりにストーリーがあってそこに魅せられていくのです。

特に地元の駅に等身大のパネルが飾ってあり、毎日のように顔を合わせる大栄翔や、毎日すごい歓声を受ける小兵の炎鵬横綱不在の中で最高番付の若き大関 貴景勝は自然と応援に熱が入ってしまいました。

さらにそんな風に大相撲中継を見ながら、長男と観戦当日の行動をあれこれ相談しました。

両国国技館の隣に江戸東京博物館があるから午前中はそこに行く?
お昼何食べる?国技館のちゃんこを並んで食べる?
とりあえず焼き鳥は食いたいよね!
終わったら夜は何食べる?

そういうプランを考えるのも楽しみの一つになっていました。

あれこれ検討したものの、結局、朝から張り切って動きすぎると疲れちゃうから、13:45くらいの十両の土俵入りから見ようということに落ち着きました。



そんなこんなで、観戦当日。家族揃って電車で両国に向かいました。
両国駅を出てすぐの両国江戸norenの源ちゃんで海鮮丼のランチを食べてから入場。

到着したときはまだ席はガラガラです。
しばらくして十両の土俵入りが始まりました。

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思っていたより土俵との距離も近く、取り組みは迫力がありました。

幕下や十両の取り組みのあと、幕内の土俵入り。
この頃にはほとんどの席が埋まっています。

まずは東方からです。

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最後に土俵にあがるのが、貴景勝

さすがに十両の力士よりみんな大きく見えて、貫禄があります。


続いて、西方の幕内力士。

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石浦のマッチョボディがすごいです


幕内の取り組みが始まると、会場のボルテージもぐっとあがりました。


照強の豪快な塩まき。もちろん大歓声です。

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炎鵬は、出てくるだけで大歓声。

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輝との対戦は、残念ながら黒星でしたが、炎鳳関は、初場所中何度もみごとな取り組みを見せてくれて、一番会場を沸かせていました。

年明け話題になった「さ、ひっくり返そう」のCMにも出演してます。


【西武・そごう】わたしは、私。|炎鵬の逆転劇 スペシャルムービー



そして、一敗の徳勝龍を、二敗で追いかけていた正代。
正代が勝って、徳勝龍が負ければ、優勝決定戦になるため、「しょうだーい!!!」と大声援でした。

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結果はみごと勝利。
正代は、徳勝龍の結びの一番の結果を待つことになりました。

続いて、美しい四股で有名な阿炎。

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これマネしてみると、絶対こんなにあがりません。股関節相当やわらかいんだろうなあ。


先ごろ引退を表明した大関 豪栄道の現役最後の取り組みは阿武咲とでした。残念ながら黒星。

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そしていよいよ結びの一番。
徳勝龍 対 貴景勝
幕尻と最上位の力士が戦うことは通常はあり得ない組み合わせだそう。
優勝争いがかかっていたからこそ実現した取り組みです。

会場は、この日最大級の大声援!!
ものすごい数の懸賞がかかっていて、懸賞旗が何回も出てきていました。

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取り組みは激しく、最後には徳勝龍が寄り切って勝利。

顔をくしゃくしゃにして泣いていた表情が印象的でした。


最後三つ巴の優勝決定戦まであるんじゃないかと言われていた貴景勝も、前日惜しくも黒星があり優勝争いから外れてしまいましたが、場所中ずっと、見事なたたかいを見せてくれました。 


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一人ではもてないほど大きな内閣総理大臣杯の受賞式や、会場中を笑いの渦に巻き込んだ優勝力士インタビューを見て、千秋楽をしっかり堪能して、帰路につきました。

それにしても、観戦当日だけでなく、年明けから大相撲でずいぶんと楽しめました。
これを機に、今後もテレビ中継を見たり、またぜひ観戦に行ったりしたいと思います。

ただ、マス席はやっぱきつい。とにかく足が痛い~。
次回は椅子席の抽選があたりますように。

哲学カフェについて:「どう流れようと、流れるように流れるのだ」

2019年下半期からいろいろインプット期間が続いてアウトプットできてないので、頭のなかが坂口安吾の書斎状態(いろんなものがごっちゃりしてるあの感じ)。

写真はこちらに↓
http://netgeek.biz/archives/61251

 

整理してからアップしようと思うと、延々と「先延ばしプレイ」が始まりそうなので、ひとまず一番もやもやしていた“問いの変遷”について書いてみる。

 

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今、何について話しているの?

昨年、いろいろなところで開催されている哲学カフェに参加した。
そして自分でも哲学カフェを何度か実施した。

それらの体験のなかで一番興味深かった(ぶっちゃけもやもやした笑)のが、「今、何について話しているの?」という、ある種の「わからなさ」だった。

例えば、以前参加した西国分寺の「クルミドの朝モヤ」では、前半に問いを出し合った後、「子どもはつくるべきか?」という問いで対話が始まった。

「反出生主義」という、生まれてもどうせ苦ばかりなんだから子どもを生むべきでないというショーペンハウアーやベネターが擁護している考え方があり、そういう考え方をどう思うか?というスタートだった。

個人的に、このテーマは興味深いと思った。
「このひどい社会に子どもを産み出すことがよいことだとはとても思えない」と以前友人が言っていた言葉に「むむむ、たしかに」と思いつつ、それでも私自身は2人の子供がいて「よかった」と思うからだ。

参加者の発言を聞いていると、いろいろな視点からの発言がなされていた。

●表現の視点
「べき」というのはおかしい
生みたい、生めない、できない、いらない、人それぞれだから「べき」とは言えない

●反出生主義、仏教の視点
そもそも人生はすべて苦
究極的に人間はいなくなったほうがいい

●個人の視点
親として、やっぱり子どもはかわいい
他人の子どもでもかわいい
子育ては自分を育てることになる
墓を守ってくれる人がいなくなるのは悲しい

●リスクという視点
子どもが障がいを持って生まれてくるリスクもある
障がいがあるというのは、想像以上に大変なこと
虐待の連鎖も起こりうる
出生前診断の倫理的な問題もある

●子ども側の視点
生まれてきてよかったかよくなかったかを決めるのは、親ではなく子ども自身だ
親が決めることではない

●社会制度、日本という視点
こんなに子どもを育てにくい社会制度では少子化が進む一方だ
このまま人口減少が進んだら国の存続が危うい

●世界的の人口動態的に見てどうか?
(これはあんまり出ていなかったような、、、)

大きくは、個人の経験を踏まえての話と、日本の社会への影響(懸念)、「反出生主義」そのものについてもっと話をしたいという、3つの流れというか方向性があったように思う。

ただしこれは後で整理したものであって、当日の場の中ではそれがバラバラと出てきていた。

いろいろな視点が出るから哲学カフェの意味があるし、おもしろいのだけれど、そのとき私のなかでは、最初の問いに対して自分が思ったことに加えて、それぞれの人の発言を受けてその都度浮かんできたことが、時間が経つほどにたまっていった。さらに視点が目まぐるしく変わるにつれて、「今、何について話しているの?」というちょっとした混乱を感じた。

もちろん、このときは自分がまだ慣れておらず、ただ単に躊躇してしまった(これは場がうんぬんではなく、たんに私の側の問題なのだけれども)というだけなんだけど、それくらい視点が入り混じったときに、自分の考えをじっくり深めていくっていうのが難しいなあと感じた。

 

自分は何を話したいの?

上記の例はあくまでも、私が初期に感じたもやもやで、回数を重ねるとそれがおもしろさだと思えるようになってきた。結局自分が何を受け取って、何を考えたか、それを素直に出せばいいのだなと。

哲学カフェのやり方は、それこそ主催者の数ほどあると言われている。

ただ、大きくは

①一つの問い(主催者が決める場合も、参加者で相談して決める場合もある)について話していく場合


②大きなテーマだけ決まっていて、そのテーマについて参加者が発言していくなかで問いがどんどん変遷していく場合

がある。
(それ以外もあるのだけど、今回はシンプルにこの2つの場合で考える)
 

①の場合、話が横道、枝葉にそれていった場合、本道に戻ってきやすいというメリットがある。「最初の問いに戻すと…」と、参加者の発言がばらけていても、「きゅっ」と集めることができる(気がする)。

だから、問いを受けて参加者が感じたことを、それが例え他の人からしたら全然関係ないことのように思えても、本人が関連していると思うのなら、発言したらいい。そこにつながりが感じられなかったら「それは今日の問いとどうつながっていますか?」と、進行役や参加者の誰かが訊けばいい。そもそも「本道、横道、枝葉」というのも単に誰かの主観であって、人が変わればその主観は変わるのだから。

 

②の場合、誰かの発言によって、その都度問いが変わっていくというか、視点が変わっていく。だから最初に出された問いについて考えているうちに、問いが3つも4つも変わってしまうことがよくある。すると、自分が発言したくなったとき「あれ、今これタイミングを逸しているかな?」とちょっと考えてしまう。だけどまあいいやと言って発言してみると、スルーされるときもあれば、大分時間が経ってから「さっきの○○さんの発言についてなんですけど・・・」と誰かが拾ってくれることもある。

結局、その場に出された問いは、その場にあり続ける。変遷はしていくけど、消えてなくなるわけじゃない。だから気になる問いがあれば、それをずっと考えるのも個々人の自由。

 

結局、どういう場であっても、人が違えばどう流れていくかわからないという見えなさがあって、そういうのがそもそもの哲学カフェのおもしろさなのだなあと今は思っている。だから大事なのは、「この場にどんな発言が適しているか?」ではなく「自分が今何を発言したいのか?」だなと。

 

主催者側としては、そういうのも全部ひっくるめて、ホールドする必要があるというか、「何を言ってもいい」という哲学カフェのルールにあるように自由に発言してもらって、「どう流れようと、流れるように流れるのだ」というある種の場への信頼がないときびしいかもしれない。

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今回、このポストを書くにあたって、文章の中身(哲学カフェの最中の感じ)をイラストにしたかったのだけど、あまりの絵心のなさに途中で断念。めげずにまたチャレンジますけどね、ええ。

*******


2月15日に哲学カフェやります。テーマは「言葉」。

私たちはたったひとつの言葉によって勇気づけられたリ、心に深い傷を負ったりすることがあります。
また、言葉で表現しきれないことも、じつにたくさんあります。

私たちにとって「言葉」とは、どんな存在なのでしょうか?
「言葉」とうまくつきあっていくには、どんなことが必要なのでしょうか?

そんな問いを出し合いながら、じっくり対話をしていきたいと思います。

【詳細・お申込みは↓↓】
http://world-cafe.net/event/post-133.html