日々是流流

“細工は流流仕上げを御覧じろ”~より善く生きるためのその時々の記録です。

哲学カフェについて:「どう流れようと、流れるように流れるのだ」

2019年下半期からいろいろインプット期間が続いてアウトプットできてないので、頭のなかが坂口安吾の書斎状態(いろんなものがごっちゃりしてるあの感じ)。

写真はこちらに↓
http://netgeek.biz/archives/61251

 

整理してからアップしようと思うと、延々と「先延ばしプレイ」が始まりそうなので、ひとまず一番もやもやしていた“問いの変遷”について書いてみる。

 

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今、何について話しているの?

昨年、いろいろなところで開催されている哲学カフェに参加した。
そして自分でも哲学カフェを何度か実施した。

それらの体験のなかで一番興味深かった(ぶっちゃけもやもやした笑)のが、「今、何について話しているの?」という、ある種の「わからなさ」だった。

例えば、以前参加した西国分寺の「クルミドの朝モヤ」では、前半に問いを出し合った後、「子どもはつくるべきか?」という問いで対話が始まった。

「反出生主義」という、生まれてもどうせ苦ばかりなんだから子どもを生むべきでないというショーペンハウアーやベネターが擁護している考え方があり、そういう考え方をどう思うか?というスタートだった。

個人的に、このテーマは興味深いと思った。
「このひどい社会に子どもを産み出すことがよいことだとはとても思えない」と以前友人が言っていた言葉に「むむむ、たしかに」と思いつつ、それでも私自身は2人の子供がいて「よかった」と思うからだ。

参加者の発言を聞いていると、いろいろな視点からの発言がなされていた。

●表現の視点
「べき」というのはおかしい
生みたい、生めない、できない、いらない、人それぞれだから「べき」とは言えない

●反出生主義、仏教の視点
そもそも人生はすべて苦
究極的に人間はいなくなったほうがいい

●個人の視点
親として、やっぱり子どもはかわいい
他人の子どもでもかわいい
子育ては自分を育てることになる
墓を守ってくれる人がいなくなるのは悲しい

●リスクという視点
子どもが障がいを持って生まれてくるリスクもある
障がいがあるというのは、想像以上に大変なこと
虐待の連鎖も起こりうる
出生前診断の倫理的な問題もある

●子ども側の視点
生まれてきてよかったかよくなかったかを決めるのは、親ではなく子ども自身だ
親が決めることではない

●社会制度、日本という視点
こんなに子どもを育てにくい社会制度では少子化が進む一方だ
このまま人口減少が進んだら国の存続が危うい

●世界的の人口動態的に見てどうか?
(これはあんまり出ていなかったような、、、)

大きくは、個人の経験を踏まえての話と、日本の社会への影響(懸念)、「反出生主義」そのものについてもっと話をしたいという、3つの流れというか方向性があったように思う。

ただしこれは後で整理したものであって、当日の場の中ではそれがバラバラと出てきていた。

いろいろな視点が出るから哲学カフェの意味があるし、おもしろいのだけれど、そのとき私のなかでは、最初の問いに対して自分が思ったことに加えて、それぞれの人の発言を受けてその都度浮かんできたことが、時間が経つほどにたまっていった。さらに視点が目まぐるしく変わるにつれて、「今、何について話しているの?」というちょっとした混乱を感じた。

もちろん、このときは自分がまだ慣れておらず、ただ単に躊躇してしまった(これは場がうんぬんではなく、たんに私の側の問題なのだけれども)というだけなんだけど、それくらい視点が入り混じったときに、自分の考えをじっくり深めていくっていうのが難しいなあと感じた。

 

自分は何を話したいの?

上記の例はあくまでも、私が初期に感じたもやもやで、回数を重ねるとそれがおもしろさだと思えるようになってきた。結局自分が何を受け取って、何を考えたか、それを素直に出せばいいのだなと。

哲学カフェのやり方は、それこそ主催者の数ほどあると言われている。

ただ、大きくは

①一つの問い(主催者が決める場合も、参加者で相談して決める場合もある)について話していく場合


②大きなテーマだけ決まっていて、そのテーマについて参加者が発言していくなかで問いがどんどん変遷していく場合

がある。
(それ以外もあるのだけど、今回はシンプルにこの2つの場合で考える)
 

①の場合、話が横道、枝葉にそれていった場合、本道に戻ってきやすいというメリットがある。「最初の問いに戻すと…」と、参加者の発言がばらけていても、「きゅっ」と集めることができる(気がする)。

だから、問いを受けて参加者が感じたことを、それが例え他の人からしたら全然関係ないことのように思えても、本人が関連していると思うのなら、発言したらいい。そこにつながりが感じられなかったら「それは今日の問いとどうつながっていますか?」と、進行役や参加者の誰かが訊けばいい。そもそも「本道、横道、枝葉」というのも単に誰かの主観であって、人が変わればその主観は変わるのだから。

 

②の場合、誰かの発言によって、その都度問いが変わっていくというか、視点が変わっていく。だから最初に出された問いについて考えているうちに、問いが3つも4つも変わってしまうことがよくある。すると、自分が発言したくなったとき「あれ、今これタイミングを逸しているかな?」とちょっと考えてしまう。だけどまあいいやと言って発言してみると、スルーされるときもあれば、大分時間が経ってから「さっきの○○さんの発言についてなんですけど・・・」と誰かが拾ってくれることもある。

結局、その場に出された問いは、その場にあり続ける。変遷はしていくけど、消えてなくなるわけじゃない。だから気になる問いがあれば、それをずっと考えるのも個々人の自由。

 

結局、どういう場であっても、人が違えばどう流れていくかわからないという見えなさがあって、そういうのがそもそもの哲学カフェのおもしろさなのだなあと今は思っている。だから大事なのは、「この場にどんな発言が適しているか?」ではなく「自分が今何を発言したいのか?」だなと。

 

主催者側としては、そういうのも全部ひっくるめて、ホールドする必要があるというか、「何を言ってもいい」という哲学カフェのルールにあるように自由に発言してもらって、「どう流れようと、流れるように流れるのだ」というある種の場への信頼がないときびしいかもしれない。

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今回、このポストを書くにあたって、文章の中身(哲学カフェの最中の感じ)をイラストにしたかったのだけど、あまりの絵心のなさに途中で断念。めげずにまたチャレンジますけどね、ええ。

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2月15日に哲学カフェやります。テーマは「言葉」。

私たちはたったひとつの言葉によって勇気づけられたリ、心に深い傷を負ったりすることがあります。
また、言葉で表現しきれないことも、じつにたくさんあります。

私たちにとって「言葉」とは、どんな存在なのでしょうか?
「言葉」とうまくつきあっていくには、どんなことが必要なのでしょうか?

そんな問いを出し合いながら、じっくり対話をしていきたいと思います。

【詳細・お申込みは↓↓】
http://world-cafe.net/event/post-133.html